6月13日(土)
赤のベルフラワーが全然たまらないので、一週間ほどコインとアイテム集めに終始していました。
待ちかねたぞ、コミュニティデイ。
なのに、なんということでしょう、今日も雷予報。
見切れている上空は青空ですが、テレビ塔の周辺は黒い雲が…。
なんとか空がもってくれるといいなあと思っていましたが、テレビ塔を過ぎて狸小路に辿り着く前に雷鳴が…。
アーケードを通って地下街まで行こうか迷いましたが、まだ大丈夫だろうとそのまま南下。
でも、南5条通りに着く前にゴロゴロが本格化。
雨も降ってきたので、中島公園に向かうのはあきらめて、地下街を通ってサツエキに戻りました。
おかげさまで赤のベルフラワーは潤沢に、青と白は1回目分は間に合いそうなくらい溜まりました。
というか、青と白は結局家の周辺に密生していました。
でも喫緊で欲しかったのは赤なので、よし。
それにしても最近の札幌は天候不順が甚だしい。
今日はYOSAKOIを見に来た観光客、移動または休憩のYOSAKOIチームの皆さん、札幌祭りを楽しむ地元の人々、交流戦ついでに観光しているドラゴンズファンの皆さん、と様々な目的で集まったひとで街中は混雑していました。
そんな中、ピクミンブルームのためにえっほえっほ歩く私。
場違いでごめんね。
最近の我が家の味噌状況。
暑いからか、塩分高めの赤みその減りが早い気がします。
本日の読書:ペスト カミュ
コロナ下によく読まれ、店頭から消えたカミュの『ペスト』を今更ながら読んだ。
当時、私も読もうと本屋に行ったのだが、すでに在庫はなく、代わりにデフォーの『ペスト』を読んだのだ。
デフォーの方は自身の幼いころに、実際にロンドンでペストが流行った時のロンドンの様子を、聞き書きや資料をもとに書いた史実だが、カミュの方はフィクションである。
簡単明瞭に記された史実の重みに比べれば、フィクションである本書の詳細な描写が却って状況を軽く感じさせるように、最初は思えた。
が、実際にコロナのパンデミックを経験した後に読んだことで、ペストのために町に閉じ込められてしまったオランの町の人々の閉塞感や、不安や苛立ちなどがまざまざと思いだされて、カミュの創造したオランの人々が、身近に感じられるのだった。
もちろん現実のコロナ下の日本との違いは多々ある。
通信手段が手紙しかない彼らと違って、私達にはネットがあった。
メールで、ズームで、SNSで不安を訴え、慰めることができた。
それができないオランの人々は、でも、町から外に出られないだけで、町の中を歩き回ることは自由だった。
外出自粛などと言う概念はなく、映画館は繁盛し、オペラも上演された。
そして主演男優は舞台上に倒れた。
主人公のリユーは医者で、妻は結核の療養のため町を出たところでのペスト騒ぎである。
コロナの時の日本の医療従事者も相当過酷な状況だったことは知られているが、リユ―やその仲間たちの生活はかなり苛烈であるように思える。
朝から夜遅くまで診察・治療(基本的に往診)をし、治療法の研究を手伝い、悩みを聞き、愚痴を聞き、行政に今後の方針を迫るという八面六臂の活躍ぶりに、彼らの免疫力について不安になる。
行政は、市民たちに不安を与えると困るので、はっきりとペストであることが判明するまでは様子見をしようとするのだが、リユーは「名前はどうでもいい。大事なのは時間が勝負なのだ」と、早め早めの処置を提言する。
とはいえ、ワクチンや血清の在庫がふんだんにあるわけではない。
ところが解説を読むと、この『ペスト』は、「ナチス」をペストに託して書かれたものなのだという。
閉塞感や理不尽で身近な死、圧倒的であり、無力感にさいなまれる日々。
これは流行病だけではなく、戦争も同じなのだ、と。
多くの人たちが、早くペストが沈静化するのをのぞんでいるなか、ひとりコタールと言う人物は、この状況が続けばよいと願っている。
彼は、本来なら逮捕され有罪判決を受けるはずの小悪党なのだが、ペスト下で罪人の留置が一時保留されているのだ。
これはイスラエルの某首相の姿に重なるものがある。
最後にペストが治まり、町が開かれるというその前日、リユーは一週間前に妻が療養先で亡くなったことを知る。
理不尽。
カバー折返しより
『一九四*年、アルジェリアのオランにペストが発生した。外部と遮断された町で、猛威を振るう疫病を前に、医師には、一市民には、無神論者には、何ができるのか?理不尽で巨大な悪に苦しみ抗う人びとの心理と言動を描き、災禍のたびに読み直される現代の古典。』コロナ下によく読まれ、店頭から消えたカミュの『ペスト』を今更ながら読んだ。
当時、私も読もうと本屋に行ったのだが、すでに在庫はなく、代わりにデフォーの『ペスト』を読んだのだ。
デフォーの方は自身の幼いころに、実際にロンドンでペストが流行った時のロンドンの様子を、聞き書きや資料をもとに書いた史実だが、カミュの方はフィクションである。
簡単明瞭に記された史実の重みに比べれば、フィクションである本書の詳細な描写が却って状況を軽く感じさせるように、最初は思えた。
が、実際にコロナのパンデミックを経験した後に読んだことで、ペストのために町に閉じ込められてしまったオランの町の人々の閉塞感や、不安や苛立ちなどがまざまざと思いだされて、カミュの創造したオランの人々が、身近に感じられるのだった。
もちろん現実のコロナ下の日本との違いは多々ある。
通信手段が手紙しかない彼らと違って、私達にはネットがあった。
メールで、ズームで、SNSで不安を訴え、慰めることができた。
それができないオランの人々は、でも、町から外に出られないだけで、町の中を歩き回ることは自由だった。
外出自粛などと言う概念はなく、映画館は繁盛し、オペラも上演された。
そして主演男優は舞台上に倒れた。
主人公のリユーは医者で、妻は結核の療養のため町を出たところでのペスト騒ぎである。
コロナの時の日本の医療従事者も相当過酷な状況だったことは知られているが、リユ―やその仲間たちの生活はかなり苛烈であるように思える。
朝から夜遅くまで診察・治療(基本的に往診)をし、治療法の研究を手伝い、悩みを聞き、愚痴を聞き、行政に今後の方針を迫るという八面六臂の活躍ぶりに、彼らの免疫力について不安になる。
行政は、市民たちに不安を与えると困るので、はっきりとペストであることが判明するまでは様子見をしようとするのだが、リユーは「名前はどうでもいい。大事なのは時間が勝負なのだ」と、早め早めの処置を提言する。
とはいえ、ワクチンや血清の在庫がふんだんにあるわけではない。
ところが解説を読むと、この『ペスト』は、「ナチス」をペストに託して書かれたものなのだという。
閉塞感や理不尽で身近な死、圧倒的であり、無力感にさいなまれる日々。
これは流行病だけではなく、戦争も同じなのだ、と。
多くの人たちが、早くペストが沈静化するのをのぞんでいるなか、ひとりコタールと言う人物は、この状況が続けばよいと願っている。
彼は、本来なら逮捕され有罪判決を受けるはずの小悪党なのだが、ペスト下で罪人の留置が一時保留されているのだ。
これはイスラエルの某首相の姿に重なるものがある。
最後にペストが治まり、町が開かれるというその前日、リユーは一週間前に妻が療養先で亡くなったことを知る。
理不尽。


