5月21日(木)
一昨年の9月末に腰椎を骨折して、昨年の6月までコルセットをつけて生活をしていました。
骨がくっつくまで腰に負担を賭けない生活をするためでしたので、特に痛みが辛いことはありませんでした。
コルセットを外してからも、ドクターストップより厳しい10さんストップがかけられ、わりとゆるゆる日常生活に戻っていったのですが、筋肉が落ちてしまったせいなのか、そこから結構腰や背中が痛くなることが多くなりました。
痛くなったらもちろん、無理はしません。
騙し騙しの日々が続きました。
おかげさまで時折「痛た…」となるときはあっても、日常生活に不便はなかったのですが。
4月に広島から帰ってきてから、ずっと腰や背中の痛みが続きました。
思うに、観劇の次の日、観光しながら買いあさったお土産をトートバッグに入れて持ち歩いていたのが敗因ではないかと。
片方の方にだけ重力がかかる状態で一日中歩き回ったこと。
しかも、もみじ饅頭は重いこと。
札幌に戻って一週間、10日と我慢しましたが、痛みが治まらないので、ついにプールに通って水中ウォークでも始めようかと思い詰めるほどになりました。
しかし、そうなると水着や水泳帽やゴーグルを買わないといけない。(今どきの水着がプロっぽすぎて、買うのが怖い)
毎回交通費がかかる。(効果が出るためには週に3~5回くらい通った方がいいらしい)
そうすると読書時間が激減する。
でも、腰は痛い。
とりあえず初期投資の高さにビビり、プールに通う前にできることをしようと思いました。
要は、腰をかばい続けていたのが敗因なわけで、ちょっとだけ、腰を鍛えてみようと思ったわけです。
で、始めたのが、ふろの残り湯を洗濯機に投入すること。
今のところ一ヶ月続けていますが、快調快調。
私が勝ってにやっていることで、エビデンスはありませんので、よい子の皆さんもよい大人の皆さんも真似しないようにね。
本日の読書:永井路子の方丈記/徒然草 永井路子
Amazonより
『人の世の無常を語った鴨長明。人間のあり方を綴った兼好。中世を生きた二人の名エッセイストの感性に迫る。』
目次
・方丈記
・徒然草
『枕草子』と並んで、三大随筆のうちの二編です。
一番古いのが『枕草子』で平安中期よりやや後半、その次は『方丈記』の鎌倉幕府初期のもの、そして最後が『徒然草』で鎌倉後期から南北朝の頃に書かれたものです。
が、『枕草子』→『徒然草』→『方丈記』のイメージが個人的には強いのです。
読んでみると『徒然草』の書きぶりの方が、『枕草子』に近いから、のように感じました。
多分、王朝文学についての造詣が深く、兼好法師自身も意識しているのかもしれません。
四季についての文章もありましたし。
でも、圧倒的に説教臭いのです。
そして年寄りに対して厳しい。
日本初の「老害告発文学」かもしれません。
『方丈記』を読んで感じる無常観は、平家滅亡の直後だから、というのが大きいのかもしれません。
だとすると、正しく、書かれるべき時に書かれた随筆と言えるような気もしてきました。
どちらも仏教に基づいて、欲をかかず、行い正しく生きることの大切さを書いていますが、鴨長明の方が骨太の文章を書いているように感じました。(永井路子の訳を読んで、ですが)
説教臭い『徒然草』には、時間を無駄にしないことについて、何度も書かれています。
まあ、時間を無駄にただ長生きしているだけの老人なんて、存在意義などないと思っているのでしょう。厳しい。
第百八段にはこう書いています。
”だいたい私たちは、一日のうちに、食事、排泄、睡眠、おしゃべり、歩行など、やむを得ないことで多くの時間をつぶしている。その残りの時間はいくらもないのに、むだなことをし、むだなことを言い、むだなことを考えて時間を浪費し、こうして日を過ごし、月を経て、ついには一生を終わってしまう。まことにおろかなことである。”
いちおう「おしゃべり」はやむを得ないことに数えられていることに、安心しました。
むだなことだけで人生を終えてしまうのは、確かに愚かなことだと思います。
けれど、最短距離で正しいことのみをして人生を終えることもまた、愚かなのではないかと思います。
一見無駄なことの中にも、大切な何かがあることもあるのではないでしょうか、と兼好法師に問うてみたいものです。
