4月25日(土)
 
2~3日前に満開は過ぎたらしいのですが、まだ残っている桜を見に桜並木をめざします。

 
満開と言われた日からずっと気温が低くて、風も強くて雨が降って、あんまり満開を感じません。

 
本当は昨日ここを歩く予定でした。
でも、家を出て5分も歩かないうちに雨に降られて、結局チカホを歩いたのでした。

 
一転してあおぞらの今日。
気温は高くないけれど、風がないのがありがたい。

 
振り返ってみたら、結構きれいな桜並木だった。

 
夜はライトアップされるので、人込みのない昼間に歩いて正解でした。

 
絶景かな、絶景かな。

 
毎日寒い寒いとすごしているのに、明日は21℃ですって。
明日は公園で桜を愛でようか。
 
 
 
 
本日の読書:ベケットと「いじめ」 別役実

 

カバー裏より

『中学校の教室で「お葬式ごっこ」が演じられた時の、本当の主役は?……いじめのメカニズムを考察するため、サミュエル・ベケットの不条理劇(『行ったり来たり』『息』『私じゃない』)を読む。対人関係という切り口から演劇のポストモダンについて語った、画期的なガイドブック。』

ふんわりとした感覚で、人間関係の希薄なベケットの芝居がが、どのように「いじめ」を表現したのかという興味で読んでみたけれども、そういう本ではなかった。

まず第一章で、現在の(と言っても40年前の)いじめの構造を分析する。
学校の教室で行われた「お葬式ごっこ」。
いつもいじめの対象となっていた生徒のお葬式という、一見遊びのようなノリで行われたそれには、写真、供花、線香なども用意され、クラスメイトや先生たちの寄せ書きまでもが飾られていたという。

もちろん言い出しっぺはいたのだろうけれど、別役実はこれを「無記名性の悪意」という。
1980年代といえば写真週刊誌が売れていた時代。
「一億総覗き屋時代」と言われ、他人のスキャンダルを興味本位に除いて糾弾する。
これはまさしく現在のSNS上で行われていることではないのか?

クラスメートも先生も、なぜいじめを止められなかったのか、という問いに著者は、例えば天皇機関説を糾弾するのはおかしいと言えなかった、例えば戦争を止めることができなかったというような過去と同じ構造だという。
みんな気づいてはいるのだ。
しかし、気づいていることを気づかれてしまうと、その集団から排斥されてしまうので無意識に気づかないようにしているのだ、と。

正直言って、第二章のベケットの演劇的手法というのはよくわからなかった。
それがどう「いじめ」を分析することに関係しているのかも。

ただ、不条理劇というのが、不条理なストーリー展開の劇というのではなく、舞台上と観客との関係性が不条理であることであるらしい、ということはわかった。
とはいえ、演劇論に詳しいわけではないので、あくまでもうっすらと、ではあるが。