9月26日(金)
毎朝楽しみに見ていたドラマ『あんぱん』が終わりましたね。
ドラマで何を伝えたいのかがはっきりわかる、丁寧なドラマ作りがとてもよかったと思います
例えば、主人公ののぶはドラマのヒロインとしてどうなのか、と思うような描かれ方をされたときもありましたが、のぶはドラマのヒロインではなく崇のヒロインなんですよね。
初めて見たときに結構衝撃的だったオープニング映像で、ちゃんとそのように表現されています。
既存のしがらみ、規則、ルールが次々と壊れていく中、軽やかに前に進むのぶ。
アンパンマンのような雲の前で笑顔で振り返るのぶはまさに、崇にとっては「君に託した神さまの采配」だったのでしょう。
実際は、誰よりも軍国主義に固まっていたのに、その頃崇が描いたのぶの絵は、ひとり人の波に逆らって赤いバッグを持って歩く後ろ姿。
実際ののぶがどうであれ、崇にはそう見えていた、そういう生き方を示してくれた人なのでしょう。
そして普通だったら戦争関連のエピソードにおいて、のぶはすっかり背景になってしまったにもかかわらず、崇の中でヒロインの座は揺るがず。
戦後、仕事を辞めたのぶが崇を支える側に回っても、やっぱり崇の中のヒロインはまっすぐに前を進むのぶ。
これが普通の小説だったら「崇、本当ののぶの姿を見ろ!」と思うところだけれど、オープニングでヒロインだと高らかに宣言されているので、これは致し方ない。
普通だったらで思い出したけど、普通だったら金曜日に週ごとのエピソードをまとめるところを、たいてい木曜日にケリをつけて、新たなエピソードの「え?どうなるの?」ってところで週またぎになるのもうまいと思った。
実在の人をモデルにしたドラマの場合、好人物とするためにフィクションが甚だしいのは好きではないのだけど、このドラマはやなせたかしの不器用すぎる頑固さがリアルで、そこもよかったな。
次作の小泉八雲の妻は、ほとんどフィクションでしょうがないけど、小泉八雲については評伝や本人の書いた日本の風景などを読んでいるので、あまり作りこみがすぎたら見なくなるかも。
札幌の中心部で観光馬車を牽くだいちゃん。
地元だとかえって乗れないもんなんだよね。
アフタヌーンティーでランチしました。(英訳不可案件)
友だちに長々と相談事をして、水もお茶もたっぷり飲んだのに、家に帰って缶ビール2本飲みました。
喉の渇きもさることながら、心が軽くなったのも一因。
話を聞いてくれる友達ってありがたい。
そしてビールは美味しい。
本日の読書:QED 伊勢の曙光 高田崇史
諏訪の謎もわかりにくかったけど、この伊勢の謎も相当にわかりにくい。
あくまでも小説であるので、すべてを信じるわけにはいかないのだが、その線引きができる知識を私は持たない。
でも、そのうえで言っちゃうと、大きな驚きがこの作品にはあった。
『天照』と『天照大神』の違いなどは、なるほどなーと思ったし、伊勢神宮とほかの神社との違いの多さについても、実際何かあるんだろうなあと思った。
まず、伊勢神宮が今の地に置かれたのが、持統天皇(女性天皇であることが大事)の時代であったということ。
そして、天皇家の祖神である天照大神が祀られた伊勢神宮を初めて参拝した天皇は、明治天皇であったということ。
古典文学を読むと、古来より天皇は伊勢に行幸していたような気がしているんだけど、伊勢神宮には立ち寄っていないというのだ。
祖神だというのに?
では、江戸時代の庶民のお楽しみだったお伊勢参りってどういうこと?っていうと、所詮江戸時代の天皇家は庶民に影響を及ぼすことがなくて、でもお題目としては「お伊勢様」というのは絶大で、美味しい食べ物があって、遊郭があって、高級な白粉と堕胎薬(どちらも原料は水銀)があって、男女ともに現実生活においてありがたい場所だったのだろう。
明治まで一度も天皇が訪れていないということは、明確な理由が天皇家には極秘裏に存在していたはず。
それを、あえて靖国神社創建の年に天皇を伊勢に行かせたというのは、政府の思惑・政府からの強要があったと思われる。
全く長州のやつらはさあ、孝明天皇を毒殺(噂)しただけでは飽き足らず、天皇家の禁忌を蔑ろにするにもほどがある。
だから、明治神宮の建てられ方も、神様を祀るというものではなく、怨霊を封じ込める形式のものなんだって。
元勲と言われた人たちに騙された、と怒ってらしたからね、明治天皇。
私が今回うなずいたセリフはそれとは全く関係はない。
「俺はその、何でもかんでも他人から『もらおう』って根性が気にくわねえな。パワーだとか、愛だとか、勇気だとかをよ。そんなのは、自分で作り出すもんだ」
全くそう。
古来より、「人事を尽くして天命を待つ」と言うではないの。
まず、人事を尽くせよって思うわ。
カバー裏より
『伊勢の鄙びた村から秘宝の鮑真珠を持参していた神職が、不審な墜落死を遂げる。事件解決へ協力を頼まれた桑原崇は、棚旗奈々とともに伊勢へ。しかし、二人を待ち受けていたのはシリーズ中最大の危機だった。果たして崇は、事件の真相と、日本史史上最大の深秘「伊勢神宮の謎」を解けるのか?「QED」完結編!』諏訪の謎もわかりにくかったけど、この伊勢の謎も相当にわかりにくい。
あくまでも小説であるので、すべてを信じるわけにはいかないのだが、その線引きができる知識を私は持たない。
でも、そのうえで言っちゃうと、大きな驚きがこの作品にはあった。
『天照』と『天照大神』の違いなどは、なるほどなーと思ったし、伊勢神宮とほかの神社との違いの多さについても、実際何かあるんだろうなあと思った。
まず、伊勢神宮が今の地に置かれたのが、持統天皇(女性天皇であることが大事)の時代であったということ。
そして、天皇家の祖神である天照大神が祀られた伊勢神宮を初めて参拝した天皇は、明治天皇であったということ。
古典文学を読むと、古来より天皇は伊勢に行幸していたような気がしているんだけど、伊勢神宮には立ち寄っていないというのだ。
祖神だというのに?
では、江戸時代の庶民のお楽しみだったお伊勢参りってどういうこと?っていうと、所詮江戸時代の天皇家は庶民に影響を及ぼすことがなくて、でもお題目としては「お伊勢様」というのは絶大で、美味しい食べ物があって、遊郭があって、高級な白粉と堕胎薬(どちらも原料は水銀)があって、男女ともに現実生活においてありがたい場所だったのだろう。
明治まで一度も天皇が訪れていないということは、明確な理由が天皇家には極秘裏に存在していたはず。
それを、あえて靖国神社創建の年に天皇を伊勢に行かせたというのは、政府の思惑・政府からの強要があったと思われる。
全く長州のやつらはさあ、孝明天皇を毒殺(噂)しただけでは飽き足らず、天皇家の禁忌を蔑ろにするにもほどがある。
だから、明治神宮の建てられ方も、神様を祀るというものではなく、怨霊を封じ込める形式のものなんだって。
元勲と言われた人たちに騙された、と怒ってらしたからね、明治天皇。
私が今回うなずいたセリフはそれとは全く関係はない。
「俺はその、何でもかんでも他人から『もらおう』って根性が気にくわねえな。パワーだとか、愛だとか、勇気だとかをよ。そんなのは、自分で作り出すもんだ」
全くそう。
古来より、「人事を尽くして天命を待つ」と言うではないの。
まず、人事を尽くせよって思うわ。


