5月10日(土)

 

最近、イギリス英語を耳にする機会が増えた。

 

YouTubeの『ニシコリ』チャンネルで、マークが話すイギリス英語を毎日聞いていた。

もちろん何を言っているのかなんて、字幕を観なければわからないし、彼らの字幕は超意訳なので、本当には何を言っているのかはわからないが。

ブラジル人のジュンジはポルトガル語と英語を話すが、彼の英語はアメリカ英語なので、逆にイギリス英語が耳に残るようになったのかもしれない。

 

例えば「Get away」とか「Shut up」をアメリカ英語では「ゲッラウト」「シャラップ」と聞こえるように発音するが、イギリス英語はきちんと「t」を発音する。

これは『アラビアのロレンス』の映画を観ながら確認した。

「I can speak English」もアメリカ英語だと「アイ キャン」だが、イギリス英語だと「アイ カン」と聞こえる。

 

で、この間ラジオからビージーズの歌が流れてきて、黙って聞いていたら、イギリス英語だったのですね、発音が。

聞いていて「あ」って感じで、イギリス英語が分かりました。

調べたら、ビージーズはイギリスのグループでした。

耳が少し成長していることが嬉しい。

 

あと、なぜスマホにばれたのかわかりませんが、最近めっちゃベイ・シティ・ローラーズの動画を推してくる。

ちょっと前まではずうとるびだったのに、今はベイ・シティ・ローラーズ。

懐かしくて、食事の支度をしながらチラチラ眺めてる。

 

私が好きだったころ、動いている彼らを見ることができるのは、来日時に収録されたテレビ番組と、レコード屋さんの店内で行われたフィルムコンサートと、キットカットのCMくらい。

今の方が断然動いている彼らを見ているという不思議。

まあ、ぼやけた映像か年取ってからの映像なんだけど。

彼らもイギリス英語を話していますが、スコットランドなまりなんですよね。

 

そんなことに注意しながら、耳を成長させている日々。

カタツムリの歩みで頑張りますわ。

 

 

 

本日の読書:abさんご 黒田夏子

 

Amazonより
『史上最高齢・75歳で芥川賞を受賞した「新人女性作家」のデビュー作。蓮實重彦・東大元総長の絶賛を浴び、「早稲田文学新人賞」を受賞した表題作「abさんご」。全文横書き、かつ固有名詞を一切使わないという日本語の限界に挑んだ超実験小説ながら、その文章には、「昭和」の知的な家庭に生まれたひとりの幼な子が成長し、両親を見送るまでの美しくしなやかな物語が隠されています。ひらがなのやまと言葉を多用した文体には、著者の重ねてきた年輪と、深い国文学への造詣が詰まっています。著者は、昭和34年に早稲田大学教育学部を卒業後、教員・校正者などとして働きながら、半世紀以上ひたむきに「文学」と向き合ってきました。昭和38年には丹羽文雄が選考委員を務める「読売短編小説賞」に入選します。本書には丹羽から「この作者には素質があるようだ」との選評を引き出した〝幻のデビュー作〟ほか2編も併録します。しかもその部分は縦書きなので、前からも後ろからも読める「誰も見たことがない」装丁でお送りします。はたして、著者の「50年かけた小説修行」とはどのようなものだったのでしょうか。その答えは、本書を読んだ読者にしかわかりません。文学の限りない可能性を示す、若々しく成熟した作品をお楽しみください。』

目次
・abさんご
・毬
・タミエの花
・虹

ページをめくって、戸惑います。
横書き、というのは知っていましたが、驚くほどひらがなの量が多いのです。
だから最初、何が書いてあるのかを読み取ることに、苦労しました。

”ふりだしの家の二そう目のぜんぶは書物とその持ち主とが領していて、三そう目からおりていく者は、寒くない季節にならあけとめてあることも多い片とびらから、(後略)”
「ふりだしの家の二そう目」とはこれ如何に?
私は最初脳内で、「二艘目」と変換していて、なぜ突然船の話なんだろう?と思っていたのだが、かなり読んでから突然「二層目」である事に気付き、つまり家の二階の話だったと腑に落ちたのだ。

章によって時系列は前後するが、要は、母を早くになくした主人公の少女と、父と、家政婦として家に入り込んでのちに父の後妻になる人との関係を、固有名詞を使わずに、時に一般名詞すら使わずに書いてある。

後妻になる人も、ちょっと変だ。
使用人としてこの家に来たくせに、最初から家族のように一緒に食卓に着く。
家事をするために雇われたのに、週の半分は今までの仕事を続ける、家事は嫌い、等。

しかし今まで父と娘の二人だけの世界で暮らしていたので、今更波風を立てるのも…という感じで妥協していくうちに、父はいつの間に彼女を後妻に迎えることになり、娘は家を出て苦しい生活をしていくことになる。
家で同然で家を出たので、父の死の間際まで実家に戻ることはなかった。

思春期の娘だから、家政婦の女性に嫌悪感をもったのか(父を取られるという危機感)、本当に女性が耐えられないくらい嫌な人間だったのか。
腹を割って話さない父娘は、最後まで本音を語ることはなく、ただアイコンタクトで何かを伝えられたのか。
私には娘の恨み節のような思いが残されたような気がするが。

本の後ろから縦書きで書かれているのが『毬』『タミエの花』『虹』の連作。
貧乏で、給食もろくに食べることができず、友だちとの遊びも不器用なタミエが、『虹』の最後の最後に語る衝撃の事実。
どうしてそうなった?

どちらにしろ、読者置いてきぼりで突っ走るタイプの作者なのだと思った。
いい意味で。