6月4日(火)
先週の月曜日、函館市からのカントリーサインの旅のついでに、縄文時代の遺跡を見てきました。
目指したのは、『垣ノ島遺跡』。
ちょうど遺跡についたころ、雨が降りはじめました。
道の駅のすぐ脇にある遺跡なので、前日に道の駅のスタンプを押すために立ち寄った際とても気になり、夕方だったこともあり、近くに一泊したのでした。
道の駅に隣接している『函館市縄文文化交流センター』で勉強してから遺跡を見ようと思っていたのですが、月曜日は休館日。
いきなり遺跡見学からスタートです。
海岸段丘の上にあるため、海を見渡すことができます。
写真に写っているのは遺跡のほんの一部だけ。
竪穴式住居の跡。
広大な敷地に点々と広がっていますが、雨のため奥まで入ってはいきませんでした。
既に靴がびしょびしょなので。
発掘された土器のかけら。(本物)
これを組み立てて土器の形を特定するなんて、3Dパズルのようなもんじゃないか。
途中から施設の人がガイドをしてくださる。
平日の午前9時、しかも雨なので、ほぼほぼ貸し切りで説明してくださいました。
大変ありがたかったです。
盛り土遺構というのは、土砂を特定の場所に盛り上げた遺構で、貝や魚・動物の骨などや土器や石器の道具などのほかに骨が見つかることもあり、全てのモノの魂を送るための「送り場」と考えられているそうです。
つまり、精神世界のようなものがすでにあったと、考えられます。
この『垣ノ島遺跡』は、紀元前7000年から1000年までの6000年間にわたる集落の遺跡なんですって!
「卑弥呼から現在までで2000年も経っていないのに、6000年というのはすごいですね!」と言ったら、施設のかたは「そんなふうに考えたことなかったですけど、確かにすごいですよね」って。
いや私、鼻血が吹き出そうなくらい興奮したのですが。(最近卑弥呼から紫式部まで1000年経ってないって気づいて、驚いたし)
「私、三内丸山遺跡に三回拒否られて、まだ見学できてないんですよ~」って言ったら、こっちの方に驚かれました。
「そんなことあります!?」って。
寄り道し過ぎて帰る時間になってしまったり、コロナ禍で休館だったり、なぜだか休館だったり…。
「この遺跡が月曜に閉まっていたら、縄文遺跡に嫌われた女を名乗るところでしたよ~。吉野ケ里遺跡(弥生遺跡)には受け入れられたので」と言って、みんなで大笑い。
今日見学できて本当によかったよ。
『垣ノ島遺跡』が世界遺産に認定されたのは、定住開始期の遺跡であること、6000年もの長きにわたって存続した集落であること(中心地などはその時期によって移動していますが)、竪穴住居による居住域と、土坑墓からなる墓域が分離していること、などが理由のようです。
私が特に心惹かれたのは、赤ちゃんの足形が付いた足形付土版が副葬品として出土されたことです。
だってこれ、赤ちゃんの誕生を喜ぶ心のあらわれってことですよね。
端に穴が開いていたから、お守りにしていたのかな~なんて考えちゃいます。
山のふもとの樹が茂っているあたりから、次々と遺跡が出てきたんですって。
バイパス道路建設のための調査発掘だったので、調査が終わると史料はこちらに移して埋め戻すという作業を続けて、じわりじわりと道路ができていますが、掘る先々で遺跡が出るので道路はまだまだ完成の見通しが立たないそうです。
埋め戻してまで道路を作っていることにびっくりしたけど。
少し離れたところにある『大船遺跡』にも行きました。
こちらは縄文の森と縄文公園に分かれていますが、規模としては小さめです。
5月の下旬、縄文の森に咲く梅。
こちらは縄文公園の竪穴式住居跡。
柱の跡とか炉の跡とか。
『垣ノ島遺跡』に比べるとずいぶん大きい。
紀元前3500年から2000年くらいの遺跡。
骨組みはこんな感じ。
祭祀場跡と思われる盛り土遺構からもやっぱり海が見えます。
ここから大量の土器や石器が出土したのだそうです。
もくもく煙が中から出ているので、不審火かッとびっくりして駆け寄りました。
腐食しないように、係のかたがほぼ毎日煙で燻しているのですって。
保存も大変です。
少し離れたところに、世界遺産の関連遺産として『鷲ノ木遺跡』というのがあるので、そちらにも行きたかったのですが、事前予約が必要と『垣ノ島遺跡』で言われたので、諦めました。(行き当たりばったりのつけ)
ここにはストーンサークルがあるんですよ。
見たかったなあ。
なぜ世界遺産ではなく関連遺産なのかというと、すぐそばを高速道路が通っているから世界遺産の審査基準としては認められないんですって。
え~遺跡の価値じゃなくって、そこ?って思いましたけど…。
狩猟や植物採集で食物を得ていた縄文人は、必要なときに必要な分しか取らないので、争いがない。
農耕を始めて、作物を保存するようになってから身分の上下や貧富の差が出て争いが起きるようになった。
というようなことをよく言われますが、私は、縄文時代にも争いはあったと思うのです。
それは、河岸段丘の上に集落があること。
争いがなければ、もう少し海岸近くの高台とか河口近くに集落があってもいいような気がします。
河岸段丘の上にあるということは、敵が攻めてきても発見しやすいということじゃないか、と。
江戸城や大阪城などが台地のへりに建っているのと同じ考えですね。
もちろんそれは何の証拠もない、私の勝手な考えです。
でも、縄文人に夢や理想を押し付けるのではなく、過去に実際に生きた人たちと思うと、やっぱり人は欲深いものだし、考えが違えば争いも起きるのではないかなーと思います。
赤ちゃんの足形を残すような人たちがそういうことをする、それもまた真実なんじゃないかと。
そんな話をしながら車の中で大興奮な10さんと私なのでした。
いや絶対また行くから!