4月6日(土)

 

毎日が締め切りに追われているような気ぜわしい毎日。

しかし昨日、お金関係のことは振り込みも、払い戻しも、支払いも、出資金の返納手続きも終わり、今日はなんだか心やすらかである。

例え図書館に返す本をまだ読み終わっていなくても、明日が返却期限なのに観ていないDVDがあろうとも。

 

とりあえず朝の家事を終えて、昼寝というか、二度寝というか、をする。

今日は温かいとテレビの天気予報は言い張るけれど、寒いので薄手のセーターにエプロンをして、綿入れを着たまま冬用の掛け布団と毛布をひっかぶって1時間ほどグースカと。

 

その時の夢。

草原か牧場か、とにかく緑の草の原っぱを若い後輩と歩いている。

私の行きつけの宿に向かっているらしい。

すると、宿の人が車で来て、荷物を先に運んで行ってくれる。(私たちを乗せてくれてもよかったのでは?)

 

個人宅のようなその民宿に着き、それぞれの部屋に案内される。

私はいつもの部屋。三畳くらいの広さで、座卓くらいの高さのカウンターが壁にぐるりとついていて、奥の方に私のバッグ、手前には前回忘れていったと思しき筆記用具とノートがある。

窓はない。

なぜこんな宿を馴染みにしているのだ、自分。

 

「まず食事を」と言われて部屋に持ってきてくれたのが(窓のない部屋で食べるんか~い)、ワンプレートにてんこ盛りの刺身の盛り合わせ。

テンションは上がるが、米のご飯もみそ汁もなにもなく、わしわしと刺身を喰らう。

すると、刺身のツマの下からカレーライスが出てくる。

びっくりして目を覚まし、「夢だから匂いで気づかなかったんだなあ」と思う。

夢の中の自分は匂いで気づいてもいい案件。

 

こんなトンデモ宿に後輩を連れ込んで、いったい何をしようとしているのかと、布団から出たくなくて無駄に考察してみること30分。

こういうどうでもいい時間が欲しかったんだよなあ。

 

お昼から10さんはサッカー観戦に出かけて行ったので、ひとりでもそもそご飯を食べて、図書館に行って、買い物をして、DVDを観て、晩ご飯の支度をして、やっぱりそれなりに忙しかったけれど、なんだか今日はちょっとだけ心がすっきりしていたのでした。

明日からはいよいよ閑中の閑。

ブログに書くことなんてあるのかなあ。

毎日「昨日と同じ」なんて書くはめになったらどうしよう。

 

 

 

 

本日の読書:苔のむすまで 杉本博司

 

Amazonより
『「私の中では最も古いものが、最も新しいものに変わるのだ」――。考古学から現代美術まで、異能の美術作家が読み解く、時空を超えた評論集。』

元々は写真家で、現在は写真を主にした現代アートの作家が書く、さまざまな芸術ジャンルに関する評論集。

やっぱりダメだ。
芸術に対する感度が、壊滅的に低いことを痛感する。
AIが、例えばゴッホの絵の、その周辺を違和感なく書き足せるようなことができるのは、センスではなく知識があるからだと思う。
なので、とりあえず知識を蓄えようと手を出してみたのだけれど、いやもう全然だめだ。

例えば、奈良時代の仏像の写真を見る。(本物を見るでもよい)
素朴で温かみのある表情なのはわかる。
けれど、宗教が精神のかなりの部分を支え、時代の社会生活を支えていた時代の人が捉える仏像と、歴史的遺物または芸術品として見る仏像では、同じものを見ても見えているものが違うのではないか。
なんてことを考え出すと、もういけない。
芸術よりも歴史だったり民俗学だったりの方に思考が行ってしまう。

崇徳院と後白河院。
兄弟で全く逆の人生が待っていたというその宿命(保元物語)を、大河ドラマで見たいなあ…なんていうのは、後白河院の好きな「今様」とは全く関係のない話。

「俺のもとに集まって戦え~」と言って敗れた徳川慶喜(鳥羽・伏見の戦い)は、同じくそう言って敗れた後鳥羽上皇(承久の乱)に似ているなーと思っていたけれど、著者は、後鳥羽上皇の時から昭和天皇が人間宣言するまで、ずっと天皇は象徴であったのだ、と言う。
そう言われればそうなのかも、と思うけれど、これもまた芸術とは関係ない話。