去年のクリスマスに新しい大型テレビを買い、その後すぐ娘の家に一週間ほど行っていましたので、年末年始の特別番組を大量に録画する羽目になりました。
それほどテレビっ子ではない私ですが、『アメトーーク!5時間スペシャル』とか、『家事ヤロウ4時間スペシャル』とか楽しみにしていたわけです。
ところが家に戻ると既に想像を絶する量の録画(年末年始のドラマスペシャルとか)がされており、リアルタイムで見ている番組も多々あり、そんなことしているうちに新しいドラマが次々はじまり…。
一体いつ私はテレビに触れるのか!?ってな日が続いたわけです。
さすがに後回しにされ過ぎるので、一度に全部は無理として、ちびちび少しずつ見ることにしていたのですが、ようやく見終わりました。やれやれ。
今日からカーリングの大会が始まったので、今日を逃すと来月まで持ち越しになるところだった…。
大画面になってよかったことは、手元眼鏡でもちゃんとテレビが見えるようになったこと。
今までは、本を読んだり勉強するときは手元眼鏡、テレビを見るときは近々眼鏡と使い分けていたのですが、これで家の中では手元眼鏡だけで過ごすことができるようになってとても楽チン。
外出時は近々眼鏡じゃないと無理だけど。
そういえば私、遠近両用メガネを久しく使っていないが、どこにやったんだろう?
もしかしたら老眼治った?
本日の読書:きれぎれ 町田康
カバー裏より
『絵描きの「俺」の趣味はランパブ通い。高校を中途で廃し、浪費家で夢見がちな性格のうえ、労働が大嫌い。金に困り、自分より劣る絵なのに認められ成功し、自分が好きな女と結婚している吉原に借りにいってしまうが……。現実と想像が交錯し、時空間を超える世界を描いた芥川賞受賞の表題作と他一篇を収録。』
目次
・きれぎれ
・人生の聖
主人公(語り手)の脳内だだ洩れの一人称小説は好きだ。
好きなんだが、好きなはずなんだが。
これには苦戦しました。
SFもファンタジーも好きだけど、マジックリアリズムが苦手。
輪郭のくっきりはっきりした世界の中で突拍子もないことが起こるのは好きだけど、世界の輪郭ごととろとろ掴みどころがなく嘘か真か妄想かわからないまま話が進むのが苦手。
この融通の利かなさがまさしく私なのだと、図らずもこの本から突きつけられてしまったわけだけど、そういうわけで、全く理解できませんでしたとしか言いようがない。
文章のリズムが良いところは好きだ。
けれどそれは、あくまでも黙読している時の話で、音読しようものならつっかえつっかえ、リズムぶち壊しながらしか読めない。
だってこの作品が発表されたのは、平成12年だからギリギリ前世紀なんだけど、それにしてもチョイスされた言葉の古臭さよ。
大正から戦前に書かれたのですか?っていうくらい口にしたことのない言葉と、斬新なオノマトペ。
これは、音読できないでしょ。
っていうか、できな過ぎて笑ったわ。
それでも『きれぎれ』は、唐突にシーンが変わったりするけれども、主人公の立ち位置というか、人間関係に揺らぎがないから、まだわかりやすかった。
まあ、途中途中で変な妖しい不穏な出来事はあるけれど。
パンの中身とか。
『人生の聖』はもう、シーンどころか、語り手さえ同一人物なのかわからない。
会社員だったりテロリストだったり、無人島に置き去りにされたり怪しい工場で途方にくれたり、他の登場人物もアパートの隣人だったり使えない部下だったり。
あらゆる出来事に悪手を打ってしまう主人公は、すべてをまわりのせいにして自分を省みることはない。
だから最後には…結局どうなったの?
読解力なさ過ぎてすまぬ。