今朝、8時半前に電器屋さんがテレビを持ってきてくれました。
箱から取り出し、テレビとブルーレイレコーダーとJ-COMのチューナーを接続してくれて、正義の味方のように去っていきました。
そのあと私がGoogleテレビの設定をして、YouTubeとT-verとABEMATVとアマプラとFODを見られるようにしました。
あ、DAZN忘れた。
そして10さんがJ-COMのリモコンとテレビのリモコンを同期(のような感じに)しました。
しかし、忘れてはならない。
そもそもブルーレイレコーダーが故障したからこのような買い物をする羽目になったのだ。
ブルーレイレコーダーもチェックしないと。
で、10さん秘蔵のSAKAI NO OWARIのLIVEブルーレイディスクを視聴。
よりによってわかりにくいシーンだけれど、映像は極めてクリーン。
音もクリアになった気がするそうです。
しかしでかい。
テレビ台は使いまわしなので、テレビに比べると小さく感じます。
ともあれ明日はデカいテレビでM-1を見る。
お雑煮の出汁は取ったし、三つ葉は冷凍したし、かまぼこや伊達巻や昆布巻きは買ったし、お正月の準備はまあまあ終わり。
明日は年賀状を書く。
実は昨日から年末年始の長期休みに突入しているので、ろくに昼休みも与えられず家のこといろいろやってます。
あー、忙しい。
テレビなんて見ている暇…あるよ。
新しいテレビになって、大画面で『いただきハイジャンプ』をT-verで見られるのは嬉しい。
YouTubeを開いたらQuizKnock関係の動画が鬼のように出て来て嬉しい。
10さんが不在時にこそこそ見ようっと。
本日の読書:白鳥とコウモリ 東野圭吾
読みごたえがありました。
量だけではなく、内容もずっしりと重たいものだったので。
違法駐車した車の後部座席から発見された死体は、誰からも善い人と言われている弁護士だった。
そしてその犯行を自供した男の自供には、物的証拠が何もないのだった。
物的証拠がなくても、犯人しか知り得ない事実を自供した時点で、犯人であることはほぼ間違いないと思われたけれど、今どきは、誰かが「犯人しか知り得ないはずの事実」をネットで考証したり分析したりすることもあり、なかなか難しい世の中である。
思えばこの作品は、ネット検索の便利さだけではなく、ネットでの誹謗中傷だったり、防犯カメラや位置情報など、現在の情報のありようをきっちり押さえたうえで、ストーリーが作られている。
でも、だからこそ、一連の事件の根幹にある重大な事実を、いくら電話では今く伝えられないと思ったからと言ってメールで知らせますか?という大きな違和感。
彼ならばきっと、面と向かって話したのではないか。
それでも、自供した彼の心情には胸を打たれる。
命を懸けて彼は自供したのだ。
そして被害者もまた、命を懸けて加害者を守ろうとした。
しかし、「善人」だから、罪を償わなくていいのか。
「悪人」は自業自得としてないがしろにされていいのか。
誰が知らなくても、自分だけは犯した罪を知っている。
善人こそがそう自分を責め続けるのではないか。
読みながら『容疑者Xの献身』や『麒麟の翼』が浮かんできた。
事情はどうあれ、犯した罪を償わないと前へ進めないと思う。
罪を隠しつづけるのは、心を歪にしてしまうと思うから。
良かれと思った判断が、何十年も経ってからブーメランのように自身に帰ってくる。
人が人を裁くことも難しさも、そこにはある。
Amazonより
『遺体で発見された善良な弁護士。一人の男が殺害を自供し事件は解決――のはずだった。「すべて、私がやりました。すべての事件の犯人は私です」2017年東京、1984年愛知を繋ぐ、ある男の"告白"、その絶望――そして希望。「罪と罰の問題はとても難しくて、簡単に答えを出せるものじゃない」私たちは未知なる迷宮に引き込まれる――。』読みごたえがありました。
量だけではなく、内容もずっしりと重たいものだったので。
違法駐車した車の後部座席から発見された死体は、誰からも善い人と言われている弁護士だった。
そしてその犯行を自供した男の自供には、物的証拠が何もないのだった。
物的証拠がなくても、犯人しか知り得ない事実を自供した時点で、犯人であることはほぼ間違いないと思われたけれど、今どきは、誰かが「犯人しか知り得ないはずの事実」をネットで考証したり分析したりすることもあり、なかなか難しい世の中である。
思えばこの作品は、ネット検索の便利さだけではなく、ネットでの誹謗中傷だったり、防犯カメラや位置情報など、現在の情報のありようをきっちり押さえたうえで、ストーリーが作られている。
でも、だからこそ、一連の事件の根幹にある重大な事実を、いくら電話では今く伝えられないと思ったからと言ってメールで知らせますか?という大きな違和感。
彼ならばきっと、面と向かって話したのではないか。
それでも、自供した彼の心情には胸を打たれる。
命を懸けて彼は自供したのだ。
そして被害者もまた、命を懸けて加害者を守ろうとした。
しかし、「善人」だから、罪を償わなくていいのか。
「悪人」は自業自得としてないがしろにされていいのか。
誰が知らなくても、自分だけは犯した罪を知っている。
善人こそがそう自分を責め続けるのではないか。
読みながら『容疑者Xの献身』や『麒麟の翼』が浮かんできた。
事情はどうあれ、犯した罪を償わないと前へ進めないと思う。
罪を隠しつづけるのは、心を歪にしてしまうと思うから。
良かれと思った判断が、何十年も経ってからブーメランのように自身に帰ってくる。
人が人を裁くことも難しさも、そこにはある。


