あんまりクリスマス感も年末感もないのに、やらなきゃならないことが多すぎて、詰んできました。
今日中にやらなきゃならないことを覚えておくのも大変。
で、あれはいつまでだっけ?これはいつまでだっけ?と、頭の中でいろいろこんがらがっておりますが。
物理的にこんがらがりそうなのが、各種機械の配線。
テレビとブルーレイレコーダーを買わなきゃならないのですが、とりあえず最近のテレビ事情とレコーダー事情を知るために、昨日の午後に家電量販店へ行ってきました。
配線がよく分かる、こういう展示がありがたい。(できるかどうかはまた別の話)
とりあえず必要な機能と不必要な機能を10さんとすり合わせ、予算を確認し、いろいろわからん機能を店員さんに聞き、各メーカーのカタログをもらって帰ってきました。
外に出ると、結構な雪。
夜から荒れるという予報だけど、夜は遅くまで予定があったので、ちょいとドキドキでした。
本日の読書:古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々 虎尾達哉
『天皇に仕えた怠惰な面々』というサブタイトルに惹かれました。
常々、日本の公務員の堅苦しいまでの生真面目さがどこから来るのだろうと思っていました。
他の国での、露骨な賄賂要求のようなことはもちろん、業務をサボタージュするのが当たり前になっていないという、生真面目さ。
いやいや、田舎での役場の職員に対する評価の厳しさは知っていますよ。
公務員ほど楽な商売はない、的な。
でも時間に厳しいところとか、書式にうるさいところとか、まあ生真面目でしょ?
いーよ、いーよ、適当で、なんて絶対言わない。
アジアって緩そうなイメージあるじゃないですか。
古代日本は全然緩かったですな。
古代日本の官僚というのは貴族のことです。
執務をするのは日の出からお昼まで。
だから朝廷。
ということは知っていたのですが、まさか仕事しに来ないなんて。
日常的に無断欠勤や詐病でのずる休みも当たり前、何なら天皇の面前で行われる式典にすら出てこない。
しかし式を執りおこなうためには許されないわけで、主催者側が「代返」をしてしまうので、ずる休みの事実は残らない。
これだけでもびっくりなのに、式典後の宴会にはしれっと参加して、天皇からの賜りものはもらって帰るという図々しさ。
上を上とは思わない強かさ。
いや~、やるなあ、古代日本。
多分江戸時代まではこんな感じだったんじゃないかなあ。
鎌倉時代や室町時代も、一部、貴族が執りおこなう業務はあったけれど、天皇の力に密接に関わる部分、例えば暦の作成とか、国家安寧や五穀豊穣祈願にかかる実務は貴族がやっていたと思う。
ただし、武士に対してマウントを取らねばならないから、きっちりやったと思うけど。
で、貴族に変わって官僚になったのが武士。
この本では平安までの官僚しか書いていないけれど、鎌倉初期の坂東武士にそれほど教育があったとは思えないし、官僚仕事が好きとも思えないので、京都から公家を連れてきたりしていたのだろう。
私が思うに、融通の利かない生真面目なお役人のもとになったのは、江戸時代の武士なのでは。
倫理観にかける人はもちろんいただろうけど、当時は儒教でガチガチに縛っていたし、一族郎党の連帯責任でお家お取り潰しになりかねないから、まじめに励んだんだと思うわ。
で、明治維新でも引き続き保たれてきた倫理の糸が、令和の今、そろそろ緩んできたということかな。
昔は政治も行政も官僚(貴族なり武士なり)が一手に行っていたのが、政治と行政を分けて、権力を握った方が先祖がえりをしているということか。なるほど。
そういえば、黒田清隆だったかな、「体調不良につき伊豆で30日ほど静養していたところですが、引き続きあと20日ほど那須で静養したい」なんて言う休暇願を国立公文書館で見たことがあります。
これ、絶対ずる休みだよねと思ったものです。
ちなみにこれ、珍しいことではなく、明治政府のえらいさんは意外とあちこちで静養していました。
さすがにここまで長いのは稀なようで「早く体を直して、職務に戻って来てね」的なことが決裁印の脇に書いてありました。
ああ、本の感想じゃなくなってる。
それでも、地方豪族が律令国家に簡単に取り込まれたわけではなく、自分優先でのびのびやっていたというのは、初めて知ったことなので、大変面白かったです。
役職はあるけれど人材がいないというのは、律令国家草創期の現実で、とりあえず名簿に名前が乗せられる程度に人材を集めることが喫緊の課題だったのでしょう。
で、長きにわたってずるを認めざるを得なかった、と。
ちなみに明治も、ポストはあるけど名簿は空欄というのが明治5年の官人録などに大量にみえました。
歴史は繰り返すんだね。しみじみ。
カバー折返しより
『壬申の乱の勝者である天武天皇以降の日本は、律令に基づく専制君主国家とされる。だが貴族たち上級官僚とは異なり、下級官僚は職務に忠実とは言えず、勤勉でもなかった。朝廷の重要な儀式すら無断欠席し、日常の職務をしばしば放棄した。なぜ政府は寛大な措置に徹したのか。その背後にあった現実主義とは。飛鳥・奈良時代から平安時代にかけて、下級官僚たちの勤務実態を具体的に検証し、古代国家の知られざる実像に迫る。』『天皇に仕えた怠惰な面々』というサブタイトルに惹かれました。
常々、日本の公務員の堅苦しいまでの生真面目さがどこから来るのだろうと思っていました。
他の国での、露骨な賄賂要求のようなことはもちろん、業務をサボタージュするのが当たり前になっていないという、生真面目さ。
いやいや、田舎での役場の職員に対する評価の厳しさは知っていますよ。
公務員ほど楽な商売はない、的な。
でも時間に厳しいところとか、書式にうるさいところとか、まあ生真面目でしょ?
いーよ、いーよ、適当で、なんて絶対言わない。
アジアって緩そうなイメージあるじゃないですか。
古代日本は全然緩かったですな。
古代日本の官僚というのは貴族のことです。
執務をするのは日の出からお昼まで。
だから朝廷。
ということは知っていたのですが、まさか仕事しに来ないなんて。
日常的に無断欠勤や詐病でのずる休みも当たり前、何なら天皇の面前で行われる式典にすら出てこない。
しかし式を執りおこなうためには許されないわけで、主催者側が「代返」をしてしまうので、ずる休みの事実は残らない。
これだけでもびっくりなのに、式典後の宴会にはしれっと参加して、天皇からの賜りものはもらって帰るという図々しさ。
上を上とは思わない強かさ。
いや~、やるなあ、古代日本。
多分江戸時代まではこんな感じだったんじゃないかなあ。
鎌倉時代や室町時代も、一部、貴族が執りおこなう業務はあったけれど、天皇の力に密接に関わる部分、例えば暦の作成とか、国家安寧や五穀豊穣祈願にかかる実務は貴族がやっていたと思う。
ただし、武士に対してマウントを取らねばならないから、きっちりやったと思うけど。
で、貴族に変わって官僚になったのが武士。
この本では平安までの官僚しか書いていないけれど、鎌倉初期の坂東武士にそれほど教育があったとは思えないし、官僚仕事が好きとも思えないので、京都から公家を連れてきたりしていたのだろう。
私が思うに、融通の利かない生真面目なお役人のもとになったのは、江戸時代の武士なのでは。
倫理観にかける人はもちろんいただろうけど、当時は儒教でガチガチに縛っていたし、一族郎党の連帯責任でお家お取り潰しになりかねないから、まじめに励んだんだと思うわ。
で、明治維新でも引き続き保たれてきた倫理の糸が、令和の今、そろそろ緩んできたということかな。
昔は政治も行政も官僚(貴族なり武士なり)が一手に行っていたのが、政治と行政を分けて、権力を握った方が先祖がえりをしているということか。なるほど。
そういえば、黒田清隆だったかな、「体調不良につき伊豆で30日ほど静養していたところですが、引き続きあと20日ほど那須で静養したい」なんて言う休暇願を国立公文書館で見たことがあります。
これ、絶対ずる休みだよねと思ったものです。
ちなみにこれ、珍しいことではなく、明治政府のえらいさんは意外とあちこちで静養していました。
さすがにここまで長いのは稀なようで「早く体を直して、職務に戻って来てね」的なことが決裁印の脇に書いてありました。
ああ、本の感想じゃなくなってる。
それでも、地方豪族が律令国家に簡単に取り込まれたわけではなく、自分優先でのびのびやっていたというのは、初めて知ったことなので、大変面白かったです。
役職はあるけれど人材がいないというのは、律令国家草創期の現実で、とりあえず名簿に名前が乗せられる程度に人材を集めることが喫緊の課題だったのでしょう。
で、長きにわたってずるを認めざるを得なかった、と。
ちなみに明治も、ポストはあるけど名簿は空欄というのが明治5年の官人録などに大量にみえました。
歴史は繰り返すんだね。しみじみ。


