才能はないけどジャニーズ事務所だから起用した、というのと
才能はあるけどジャニーズ事務所だから起用しない、というのの構造は
一体どう違うんだろう。
糾弾されるべきなのは加害者本人と、
それを知っていてなんの手立ても打たなかった当時の大人たちではないの?
事務所の社員はもちろんのこと、マスコミが当時からきちんと報道していたら、これほど多くの被害者は生まれなかったはず。
それらの責任を今活躍しているタレントと、これから頑張ろうと思っていた青少年たちにかぶせて、
糾弾したので大人としての責任は果たしましたというのは、無責任を通り越して悪辣と言える。
事務所の名前が被害者の心を傷つけるというのなら、マスコミこそ連呼するのを辞めたらよかろう。
これほど事務所の名前とタレントの名が紐づけられているのはジャニーズとよしもとくらいでしょ?
事実を認めてまだ1ヶ月しか経っていないのだから、もう少し落ち着いて推移を観察して、
それでダメダメなら糾弾すればよい。
何も決まっていないうちにやいのやいの言うのは、う・る・さ・い。
世間の大勢とは違って、私は事務所名を変えることが責任を取ることとは考えない。
逆に、今まで名前を変えて過去をなかったことにしてきた企業や組織には不信感しか覚えない。
最初に「事務所名を変えます」と言ってたら、今「変えないのはおかしい」と言っている人たちはきっと、「変えたからって許されると思うなよ」と言うんだろうなあ。
何をしたって、しなくたって、結果は「悪い」ことに決めているみたいに。
そういう大人たちの言動を、子どもたちは見ているはずだ。
見苦しいなあ。
被害者の救済をすることは明言しているのに、持ち時間のなくなった将棋のようにカウントダウンで急かされる。
救済って急かされてやることじゃないのになあ。
おお、一言がずいぶん長くなってしまったわ。
本日の読書:風立ちぬ/菜穂子 堀辰雄
カバー裏より
『宮崎駿監督、最後の長編アニメ映画となった「風立ちぬ」。大ヒットを記録したこの作品のモチーフとなったのが堀辰雄の名作小説「風立ちぬ」だ。重病に冒され、高原のサナトリウムで療養を続ける節子。婚約者である「私」は、美しい自然の中で、生と死に向き合いながら、献身的に節子を支える。〈風立ちぬ。いざ生きめやも〉有名な詩句に託された二人の運命。不朽の恋愛小説に再び光が当てられた。これも映画「風立ちぬ」のヒロインの名前ともなっている小説「菜穂子」も同時収録。「僕らがいた」の小畑友紀さんの描き下ろしたカバーイラストとともにお読みください。』
目次
・風立ちぬ
・菜穂子
今まで読んだことがなかったのだけど、サナトリウム文学ということである程度イメージはあった。
でも、今、このご時世、この小説に需要はあるんだろうかというのが、読後の感想。
死病というのは、今でも小説の重要なモチーフの一つだけど、この作品が書かれた戦前という時代、結核というのは本当に身近な死病だったのだろう。
伝染したら困るからというので隔離されていたと思うのだけど、実に気楽にサナトリウムにお見舞いに行き、看病のために泊まり込む。
菜穂子にいたっては、大雪の降る日に病棟から抜け出して駅に向かうのだが、途中であった病棟の看護婦に「早くお帰りになってね」と見送られる始末。
あまりにも緊迫感がなくない?
そして、時代のせいなのか堀辰雄という個人がそうなのかはわからないけれど、どの人物も自分のことしか考えていない。
病気だとか病気じゃないとか関係なく、自分の感情にまわりの人を巻き込むのを当たり前と思っている。
小説は、登場人物に必ずしも共感しなくてもいいと思ってはいるけれど、登場人物同士の共感すらまったくなくて、自分の問題で手いっぱい。
ストーリー自体に起伏もなく、共感できない登場人物たちの屈託を延々聞かされる。
「風立ちぬ」はまだ、節子とその父親の互いを思いやる心情とか、節子が語り手の私を精神的に支えようと努めるところなどがままあるが、「菜穂子」に至っては、母と娘の冷たい断絶、夫婦の間の無関心、恋人への自分勝手な怒りなど、ちょっと読んでいてイライラしたなあ。
解説も、この作品の解説は書けなかったのか、宮崎駿の映画について多くの文字を費やしているくらいだった。
私が日本近代文学が苦手だからなのかな。
サナトリウム文学を読むなら、『魔の山』で充分。
宮崎駿の映画「風立ちぬ」には感動したけれど、あれとこれとは別作品。
このご時世に、読む必要はあるのかなあ。
