本当なら今日は、室蘭にウォーキングに行くはずだったのです。
町内会の仕事で忙しい10さんは行けないので、ひとりで。
1日散歩きっぷだと各駅か快速にしか乗れないので、事前に時刻表で乗り継ぎ(3回)を確認すると、片道3時間もかかるけど。
ただ、心配だったのは、高低差が大きいコースなので、本当に歩ききれるか、ということ。
ちょうどゴールデンウィークに両親を連れて室蘭の測量山へ行ってきたという後輩に、ウォーキングコースの断面図を見せて相談してみました。
「前半の登りはきついけど、地図を見ながら、こことここで休憩しながら歩くと大丈夫だと思いますよ。
最悪バスで帰って来るということもできますし。」
なるほど。
紙がよれているので見苦しいですが、それがこの断面図。
前半の急坂がえげつない。
9キロくらいの地点が道の駅なので、ここでお昼を食べようかなあ、なんて考えていたのにさ。
昨日の夜の時点で、室蘭の天気予報は午後から雨。
というわけで断念して、今日は一日中家にいて、本を読んだり、昼寝したり、クイズノック動画を見たり。
10さんがいないのでやりたい放題。
ああ、楽しかった。
あ、勉強もしたよ。(勉強欲燃え上がる今日このごろ)
本日の読書:長いお別れ 中島京子
難読漢字はすらすらわかる。妻の名前を言えなくても、顔を見れば、安心しきった顔をする―。認知症の父と家族のあたたかくて、切ない十年の日々。』
目次
・全地球測位システム
・私の心はサンフランシスコに
・おうちへ帰ろう
・フレンズ
・つながらないものたち
・入れ歯をめぐる冒険
・うつぶせ
・QOL(クオリティ・オブ・ライフ)
連作短編集のようなていを取っていますが、長編小説です。
東昇平の認知症になってからの10年を、折々のエピソードで綴っている。
妻曜子は都内の一戸建ての家で、ひとりで在宅介護をしている。
娘は3人。
長女・茉莉は夫の仕事の関係でアメリカ在住。
次女・菜奈は専業主婦なので一番頼られてはいるが、自分の家庭の都合だってある。
三女・芙美は独身だが、フリーのフードコーディネーターとして忙しい日を送っている。
娘には頼れない。
曜子のその気持ちはわかるけど、やっぱり家でひとりで面倒を見るというのには限界がある。
精神的にも、体力的にも。
デイサービスや、症状が進むにつれてショートステイなども利用してはいるが、なんといっても曜子が「お父さんの面倒は私が見なくちゃ」という思いが、却って昇平の社会性を阻止して症状を悪化させているようにも見える。
そして昇平の面倒を見るということが、曜子の支えになってもいるのだろう。
忘れっぽくはなってきたけど、ちゃんとしている時もあるんだから、わたしが支えていれば大丈夫。
男女は逆だが、実家の父もそう言って、なかなか母の症状を認めようとはしなかった。
というか、今でも、ちゃんと話せばわかるはず、と思っている。
子どもの気持ちも、曜子の思いもわかるから、最後は「ああ、やっぱりそうなるのですね…」と思ってしまうけど、実際人間というか生物として、そうならざるを得ないんだよなあ。
クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)。
これも人それぞれ、何を大事と考えるかは違って来るし、同じ人でも元気なときと気弱になったときでは違うと思うので、常日頃、自分は人生の最終局面をどうしたいのかを考えておかないと。
大抵は好きなことができなくなったら、がっくり気力が落ちると思うよね。
本を読めなくなったら、好きな食べ物を食べられなくなったら、歩けなくなったら、その時々に「それでも生き続けたいのか」と自分に確認しなくては。
”夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。(中略)妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、ある時はさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。”
Amazonより
『帰り道は忘れても、難読漢字はすらすらわかる。妻の名前を言えなくても、顔を見れば、安心しきった顔をする―。認知症の父と家族のあたたかくて、切ない十年の日々。』
目次
・全地球測位システム
・私の心はサンフランシスコに
・おうちへ帰ろう
・フレンズ
・つながらないものたち
・入れ歯をめぐる冒険
・うつぶせ
・QOL(クオリティ・オブ・ライフ)
連作短編集のようなていを取っていますが、長編小説です。
東昇平の認知症になってからの10年を、折々のエピソードで綴っている。
妻曜子は都内の一戸建ての家で、ひとりで在宅介護をしている。
娘は3人。
長女・茉莉は夫の仕事の関係でアメリカ在住。
次女・菜奈は専業主婦なので一番頼られてはいるが、自分の家庭の都合だってある。
三女・芙美は独身だが、フリーのフードコーディネーターとして忙しい日を送っている。
娘には頼れない。
曜子のその気持ちはわかるけど、やっぱり家でひとりで面倒を見るというのには限界がある。
精神的にも、体力的にも。
デイサービスや、症状が進むにつれてショートステイなども利用してはいるが、なんといっても曜子が「お父さんの面倒は私が見なくちゃ」という思いが、却って昇平の社会性を阻止して症状を悪化させているようにも見える。
そして昇平の面倒を見るということが、曜子の支えになってもいるのだろう。
忘れっぽくはなってきたけど、ちゃんとしている時もあるんだから、わたしが支えていれば大丈夫。
男女は逆だが、実家の父もそう言って、なかなか母の症状を認めようとはしなかった。
というか、今でも、ちゃんと話せばわかるはず、と思っている。
子どもの気持ちも、曜子の思いもわかるから、最後は「ああ、やっぱりそうなるのですね…」と思ってしまうけど、実際人間というか生物として、そうならざるを得ないんだよなあ。
クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)。
これも人それぞれ、何を大事と考えるかは違って来るし、同じ人でも元気なときと気弱になったときでは違うと思うので、常日頃、自分は人生の最終局面をどうしたいのかを考えておかないと。
大抵は好きなことができなくなったら、がっくり気力が落ちると思うよね。
本を読めなくなったら、好きな食べ物を食べられなくなったら、歩けなくなったら、その時々に「それでも生き続けたいのか」と自分に確認しなくては。
”夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。(中略)妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、ある時はさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。”
