卒園・卒業式で感動した場面

長男の高校の卒業式。

国公立大学理系クラスだったので、男子クラスでした。

だから、結構仲の良いクラスではありましたが、

基本的には学業優先校のおとなしい男子たち。

学校祭で盛り上がる、ということもあまりなく、

卒業式も淡々と粛々と行われました。

 

ところが教室に帰って、最後の担任の先生のあいさつがはじまった途端、

号泣する子続出。

中には泣きながら鞄からボックスティッシュを取り出す子もいて

「泣く気満々やん」と笑っちゃいました。

高校生男子、可愛すぎる。

 

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本日の読書:指差す標識の事例 上 イーアン・ペアーズ

 

カバー裏より
『1663年、クロムウェル亡き後、王政復古によりチャールズ二世の統べるイングランド。オックスフォードで大学教師の毒殺事件が発生した。単純な動機の事件と目されたが……。衝撃的な結末の第一の手記に続き、同じ事件を別の人物が語る第二の手記では、物語は全く異なる様相を呈していく――。『薔薇の名前』とアガサ・クリスティの名作が融合したかのごとき、至高の傑作が登場!』

まだ上巻なので作品のできについての判断はできないけれど、あまりにも衒学過ぎてとっつきにくいにもほどがあると最初はうんざりした。

何しろ17世紀のイギリスの話で、第一章の語り手はイギリスに着いたばかりのヴェネツィアの若者。
多分本人による手記よりも会話は困難を極めただろうし、それに伴う勘違いのようなボタンの掛け違いもあっただろうし、文化の違いによるバイアスもかかっただろう。
何よりも、宗教の違いは大きい。
語り手は敬虔なカトリック教徒であり、英国は英国国教会を国教としている国。
日本人から見ると同じ神を信じているはずなのに、神に対する姿勢は全く違う。

”プロテスタントがよく聖書の引用をして競い合うのはどう考えても馬鹿ばかしいことだったし、場合によっては神への冒瀆に当たるのではないか、とさえ思っている。”

これと同じことをモンテーニュも『エセー』の中で書いていましたね。

さて、多少世間知らずなところがあるとはいえ、医学生として病人を見ると治療せずにはいられない好青年のマルコ・ダ・コーラの手記が第一章に当たる。
実家は裕福ではあるものの、信頼していた人にイギリスでの財産を横領され、それを取り返すべく野蛮な国イギリスにやってきたわけだけど、どこで誰に訴えていいのかもわからないし、手持ちの金も不如意の状態。
それでも、イギリス人の文化程度の低さも不衛生も我慢し、極力プライドを抑えてオックスフォードの学生としての人脈を広げようと努力を怠らない。
たとえ空回りをしようとも。

ふとしたことで一人の老女の治療をすることになるが、どう見ても手の施しようがない。
看病している娘のサラは顔はきれいでも性格は粗暴で、これ以上関わりたくないという思いと、輸血という新しい治療法を試してみたい気持ちとの間で揺れたコーラは、結局治療をすることで否応なく事件に巻き込まれていく。

オックスフォードの教師グローヴが、自宅の室内で誰かに毒殺された。
どういうわけか最初からサラが犯人であるといううわさが流れ、証拠も提出される。
サラは罪を認め絞首刑となり、一度は持ち直したサラの母も結局は命を喪ってしまう。
コーラはサラを火葬してやり、その母親の埋葬費も払ってイギリスを去り国へ帰ることにした。

そして二章に入ると、今度はコーラと何度か交流のあったジャック・プレストコットの手記となる。
なるほど、この本に4人の訳者がいるというのは、そういうことか。(全体が四章ある)

プレストコットは第一章では、オックスフォード大学の法学徒であり恩人を殺害しようとした罪で死刑を待つ囚人だった。
しかし、プレストコットはまず、コーラの手記には嘘があることを記す。
また、恣意的に記載されていないことのあることを指摘する。

自身の生い立ちを延々と書き連ね、それはそれで興味深いが、いったい私は何を読まされているのだ?と思った頃、プレストコットとサラの繫がりも明らかになる。
21世紀では考えられない関係性というしかない二人の因縁は、第一章でコーラが書いたようにサラの刑死という形で幕を下ろすのだけど、それで本当にいいのか?プレストコットよ。

グローヴの死の瞬間を立ち会ったプレストコットは、それについてあまり衝撃を受けていないようにも見え、少々メンタルが普通じゃないのかもしれないと思ったり。

この二人の手記は、それぞれに自分は善人であると思い、正しい行いをし、神に対して恥じることがないように書いていあるが、書かれている内容は必ずしも同じではない。
信用できる語り手なんて存在はない、というのがこのタイトル『指差す標識の事例』ってことなんだろうか。