本日のおうちごはん

 

去年の秋、新潟で買ってきた『新潟5大ラーメン』のうち、今日は4食目の『三条カレーラーメン』。
やけに麵が多くてびっくりしましたが、具が下に沈んでいるというスタイルでした。
だからわかりにくいけれど、カレーライスの具がごろごろ出て来てちょっと食べにくかったです。
本来はカレーライスの具は上に乗っています。
でも、スパイシーで美味しかったです。
 

 

同じネタで投稿する

 

他の投稿ネタを確認する

 

 

 

 

本日の読書:エセ― 1 モンテーニュ

 

 

Amazonより
『ミシェル・ド・モンテーニュは、16世紀フランスの思想家、モラリストである。彼が残した『エセー(随想録)』は、古典知識の集大成であると同時に、知識人の教養書として古くから受け入れられ、その真理探究の方法、人間認識の深さによってデカルト、パスカルなどの思想家に影響を与え、今日にいたるまで古典的な名著として多くの人々に読みつがれている。
 「わたしは何を知っているのか(ク・セ・ジュ)?」という句は、モンテーニュの言葉であるが、人間の理性、判断力、知識には限界があることを謙虚に認め、試行錯誤を恐れずに真理を追究しようとしたモンテーニュの思想をよく表している。
 新訳にあたり、訳者の宮下氏は以下のように記している。「わたしの基本方針は、とにかく、すっきりした気分で読み進められるような訳文をこころがけること。もちろん、モンテーニュ自身が、すっきりした書き方をしているわけではないから、このあたりは、かなり綱渡り的な作業になるのは仕方のないところ。それでも、なんとかして清新な訳文を構築して、次の世代に、この人生の書を確実に伝えたい」
 一例を次にあげよう。「どこで死が待ちかまえているのか、定かでないのだから、こちらが、いたるところで待ち受けよう。死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。」
 モンテーニュのイメージを一新する平易かつ明晰な訳文で古典を楽しもう。』
 
いやいや、とんでもないものに手を出してしまいました。
私が一番信頼している読書系サイト『本が好き』でさえ、フレイザーの『金枝篇』を読んでいる人はたくさんいても、この本を読んでいる人が一人もいない!
だれだよ、私にこの本勧めたの。
 
第1巻は25章に別れていますが、20章を読み終わってまだ半分くらい。
最初の方はエッセイと言うよりも、哲学や歴史についてを読んでいる気がしました。
塩野七生の『ローマ人の物語』、ダンテの『神曲』、佐藤賢一のフランス史物などを読んでいたおかげで、思ったほどつらくはありませんでしたが、やっぱり知識の不足が残念だなあ。
 
”わが国では、分別(サンス)がない人間のことを「あの人は記憶力(メモワール)がない」などというものだから、それでもってわたしが、自分の記憶力のなさを嘆いたりすると、なんだか自分に分別がないことを認めたかのように(後略)”
記憶力がないということは分別がないと判断されてしまうというところに、フランスの厳しさがあるなあ。
日本人でよかった。
 
”われわれの宗教は、生を軽視すること以上に、確かな、人間的なよりどころをもってはこなかった。(中略)実際、失ってしまったら、惜しむこともできないものなのに、それを失うのがどうしてこわいというのか?”
死への怖れというのは、人間が根源的に持つ感情だと思うので、それが過剰なときに恐怖を軽減するための宗教というのは有効だとは思う。
だけど、今度はそれが行き過ぎて、来世の幸福をエサに死を軽んじさせる宗教も現れるから、何事もほどほどがいいと思うんだよなあ。
日本の場合、行き過ぎた廃仏毀釈が、宗教と生活を切り離してしまったことで、新興宗教につけ要られる隙を作ったのではないかと最近思っています。
 
”子供にとって、遊びとは、ただの遊戯ではなく、彼らのもっとも真剣なふるまいだと考える必要があるのだ”
「子どもは遊びで遊んでるんじゃないんだよ」by我が家の次男
 
ギリシャやローマ時代の古典の引用を多用しながら
”わたしだって、こんな、受け売りの、物乞いするような能力は、好きでもなんでもないのだから。
われわれは他人の知識で物知りにはなれるかもしれないが、賢くなるには、自分自身の英知によるしかない”
と自分の言葉でいいことを書いた後、引用の羅列。
遊んでいるのか、自虐なのか。
 
”お子さんが、知能を獲得されたら、それを浪費せずに、節約するように、そしてまた、目の前で語られる、ばかげた与太話などには腹を立てないように教育することです。なぜといって、自分の好みに合わないものには、なんにでも食ってかかるとなどというのは、不作法で、はた迷惑なことだからです”
今の日本にこそ、必要な一言。
 
”歴史を覚えさせるよりも、それについて判断することを教えるべきなのです”
判断するためには、歴史をある程度知らないとね。
とはいえ、モンテーニュが語る学校への不満って、今と全然変わらない。
規則や体罰などで子どもを縛るな、とおっしゃってます。
”これでは、まるで青春を閉じ込めておく牢獄ではありませんか”

 

ところで、「エセー(随想録)」というので、「枕草子」や「徒然草」のような身辺雑記から発するあれこれかと思ったのですが、それよりちょっと宗教・哲学寄り。

ちょうどフランスの宗教戦争の頃でもあり、ちらちらカトリックの影響も見えます。

だけど、書いた当初はこれ、時事問題くらいの感覚だったのかしら。

今読むとがっつり歴史なのですが。

 

あと、最後の方で、自分が勉強をできないことの言い訳めいたことを結構長く書いてますが、誰かに何か言われたのでしょうか。

どうしたモンちゃん、ちょっと引くぞ。