昨日一日、図書館に行く以外予定がなかったので、読書に励むはずでした。
しかし、脳が拒否するのよ。
理解が追いつかないので、読み続けるのは不可、と。
10さんがサッカー観戦でいない隙に読書を進めようと思ったのに、30ページでギブ。
残りあと70ページ。
 
で、晩ご飯はたこ焼き屋さんで10さんと待ち合わせ。
先に着いた私はもちろん10さんを待ちません。
 
10さんが着く前に来ちゃったたこ焼き。
右がポン酢たこ焼きで、左は味噌たこ焼き。
味噌好きの10さんのために頼んでみましたが、味噌がちょっと甘かった。
 
あっという間にビールもたこ焼きも10さんに追いつかれ、追加を頼む。
しょう油ごま油たこ焼き。
 
このほかキムチ冷奴とか、にんにく肉もやしとか、塩だれ焼きそばとか10さんは頼んでいましたが(もちろん少し分けてもらいました)、たこ焼きしか眼中になかったのかなあ…一切写真が残っておりません。
 
こーゆー感じの餃子屋さんが近所にあるといいのになあ。
一軒あるにはあるんだけど、サイドメニューがないのよ。
 
 
 
本日の読書:正統とは何か G.K.チェスタトン

 

Amazomより

『逆説の思想、飽くなき批判精神の射程。人間と社会における不変の真理とは何か。“現実”を見つめ直すとき、時代を超えて読み継がれてきた不朽の名著。』

 

ここ数日苦戦していた本です。

まず、なんの正統について書いている本なのか。

それはキリスト教です。

薄々わかっていたけどね。

ブラウン神父シリーズの作者だから。

 

でも、だから、硬質な文体の中に見え隠れする仄かなユーモア、みたいなものを期待していたのですが、そんなものは一切ありませんでした。

最初から最後までガチガチのガチ。

で、文字を目で追っていっても全然内容が入ってきません。

 

”気のふれる危険は論理にあって想像にはないというだけだ。”

一般的に気のふれた人は非論理的であるとみられがちだけど、彼らは彼らの中では理屈が通っている。

しかし、論理だけに重きを置く人が、論理だけでは語れないものに出会った時(神や奇蹟等)、正気を保っていられない危険がある、と。

 

”狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である。”

なるほど。

この辺までは何とかついていけたけど…。

 

”夜明けには、ストア派の賢者のように、清冽な清水に身を洗っても、日暮れには、背教者ユリアヌスのように、熱い牡牛の血潮に身を浸す仕儀となる。”

”マルクス・アウレリウスやその一派は、宇宙にはいかなる神も存在しないという結論に達していた。ただ内なる神しか彼らの眼中にはなかったのである。”

背教者ユリアヌスは、キリスト教だけに与えられた優遇制度を撤廃した人で、別段キリスト教を迫害したわけではないんですけどね。

とにかくキリスト教唯一主義と言っていい論調にシフトしてから、だんだん読みにくくなってくる。

 

少し長いけど引用します。

”獅子が子羊の傍らに身を横たえる時、獅子は子羊のごとく温和になるという。けれどもこれでは、子羊が強引に獅子を併合するという、いわば子羊の帝国主義を標榜した予言になってしまうだろう。獅子が子羊を食うかわりに、子羊が獅子を併呑したにすぎなくなる。”

ここまではわかる。

”問題はこういうことなのだ。つまり、獅子は子羊の傍らに身を横たえながら、しかもなお百獣の王としての獰猛さを失わずにいられるか――これが問題だ。これこそ教会が解こうとした問題であり、これこそ教会が成し遂げた奇蹟なのである。”

どゆこと?

木村裕一の『あらしのよるに』シリーズを思い出しましたが、教会が成し遂げた奇蹟?

 

”今まで主張してきたところを要約すれば、結局三つの命題に帰着する。第一、この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能であること。第二、あるがままの世界に何らかの不満がなければ、満足すること自体さえありえぬということ。第三、この不可欠なる満足と不可欠なる不満を持つためには、単なるストア派の中庸だけでは足りぬこと――以上である。”

要約されても第一、第二と第三の間にある論理の展開がわからない。

 

今朝からずっと読んできたけど、頭グルグル。

次の本を読みだすまでに、少し時間を要するかも。