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『気がつくと、水に憧れ、水に恋して、水を求め歩いている。これほどまでに惹かれる「水」とは、自分にとっていったい何なのだろう?田口ランディの旅はいつしか水に導かれ、自分自身の聖地を探す旅になっていた…。疾走する日常と内面と向き合う旅とのコントラストを描き好評を得た『ダ・ヴィンチ』連載の紀行エッセイ。』
目次
・鬼のお宿・天河弁財天節分祭
・「水神社」から渋谷地下へ一三〇キロの旅
・屋久島から世界を眺めて
・フジヤマの祈り
・知床 カヌーを巡る旅
・パラレルな街「ヒロシマ」
・青森の怪しい旅人
・熊本 水と共鳴する魂
・鹿島神宮と要石の謎
・出雲大社でヴァージョンアップ
・出雲への旅、その後
『聖地開発事業団』
日本の中にある、なぜか心が清らかになるような、解放されるような、そんなパワースポットを田口ランディが仲間たちと巡る奇行エッセイ。
なのだけど、思った以上にスピリチュアルでした。
こういうのって信じている人と信じていない人とでは、同じ体験をしても受け取るものが全く違う。
私としてはフラットな立場で体験したことを書いてほしかったのだけど、同行するのが超能力者だったり、アイヌのシャーマンだったり、占星術研究家だったり、タロット占い師だったり…。
結果、超自然の方に寄っていってしまう。むむむ。
私は神様のような全能な存在があっていいとは思っているのです。
ただそれは、人を救うとか、人間のための存在ではなく、ただそこにある存在。
神さまにすべてをお任せする、何かあったら助けてもらう、というのができない。
著者も”私はいまだに「なにかに自分を託す」ということが恐ろしい。意識によって自分を自分の管理下に置いておきたいという強い暗示が働くのだ。”と書いているが、まったく同感。
ただ、何かを感じたら、謙虚にそれを受け止めようとは思うけれども。
”意識の考えていることは所詮は、損得勘定だ。だけど、体を使って夢中になっているとき無意識が働いていることは、損得じゃない。私の心そのもの。どうしたら自分にとって一番気持ちいいか、っていう答えそのもの。体のリアルへと自分を導いてくれる。”
昔から聖地と言われているところには、理由がある。
今の日本はその理由をなかったことにして、聖地をふみにじる。
この中では鹿島神宮しか行ったことないけれど、確かに表参道の俗っぽさと、本来の参道であった御手洗池の空気感のあまりの違いに違和感を覚えたものだった。
海から神さまが渡ったと言われる道は、ゴミだらけだったと著者は書く。
海も山もあるのに茨城県の人気がないのは、聖地を大切にしない姿のあらわれなのかな、と思ったり。
