ボケ防止のためというわけでもないのですが、時間を作って漢字の勉強をしています。
で、その問題集の設問が、ちょっとおかしい…気がします。
最初にひっかかったのは
・庫裏には宝物が納められている
庫裏ってお寺の台所のことだよね?
庫って漢字に引っ張られて、意味勘違いしてる?
いや、仮にも漢字の問題集がそんな間違いを?
もしかして私が勘違いしてる?
辞書を見た。間違っていない…と思う。
頭の中??になりながら次の設問を見ると
・院の許諾があれば逮捕が可能である
逮捕を可能にする許諾を与える院って何?
病院?人事院?平等院?
っていうか、許可じゃなくて許諾ってどういうこと?
そのあともね、いろいろひっかかるのさ。
・拷問による自白の強要は禁じられる(「禁じられている」じゃないところも気になる)
・事件に関係していた職員を更迭する
・非業の最期をとげることになる
・隠匿物質を押収する
・悪事を企てたが事前に発覚した
ちょいちょいこんな文章が出てくる。
なんか不穏な文章てんこ盛りじゃない?
作問者に何かあったのかな。![]()
本日の読書:三国志 第七巻 宮城谷昌光
カバー裏より
『荊州において劉備の勢力が膨張している。孫権は本気で荊州を劉備に任せたのであろうか。北方にいる曹操の目には、両者は協調しているように映る。そして西方には馬超と韓遂が――熾烈な戦いを進める初老の曹操にとって今や歳月さえも障害になりつつある。建安二十一年、魏王となった曹操は、後継を誰にするか迷いの中にいた。』
着々と領土を広げる劉備。
そして、周瑜亡きあとも安定した強さを見せる孫権。
60歳を迎える曹操には、やはり彼らが脅威だったのだとは思う。
でもどちらにも義はないと思うんだよなあ。
他人が納めていた土地を奪い取って、勝手に領主になっているだけなんだから。
特に劉備に関して言えば、反曹操勢力の強い徐州はともかく、自分が困っている時に助けてくれた人たちからかすめ取っているわけじゃん。
なんであんなに『三国志演義』で聖人扱いされているのかわからん。
”住所の定まらないことを『荘子』は、鶉居(じゅんきょ)といい、それが聖人のありかたであるというのであるが、ここまでの劉備がまさにそれであった。ただし聖人にはなれず、模倣者に終わった。儒学における劣等意識が、儒学的世界に反抗する行動をえらばせたが、じつは劉備には内的な課題はなく、たとえば人が協同して生活するという規範づくりには無関心であったことは否定できず、他者の幸福のために働くということもせず、ひたすら曹操にさからうことで自己の存在をたしかめ、衆望を得てきた。”
周瑜はもっと冷徹に劉備をぶった切る。
”周瑜の目には、劉備は悪運の強い英雄としか映らない。”
しかし、その悪運が大事なんだよね。
人物の出来としては周瑜の方がずっと上であったはずだが、彼は三十代半ばにして病で命を落とす。
彼が圧勝した赤壁の地で病を得たことも、歴史の皮肉を感じずにはいられない。
そして、周瑜が亡くなったことから、劉備一味は呉を振り回すことができるようになる。
孫権の妹を劉備の妻にすることで姻戚として劉備を従えたつもりの孫権と、そんなつもりのさらさらない劉備。
形だけの妻なんてどうでもよくて、孫権から預かった土地を自分のものとして、さらなる領土拡大を画策する。
次なるターゲットは劉璋だ!
これまでの劉備の思想「為さざるは、為すことにまされり」から一転、攻めの姿勢で…って、諸葛亮の存在が薄い。
『三国志演義』では自身は動かなくても、水面下で八面六臂の大活躍をしていた気がするけど、史実には水面下が書かれていないので、こうなるわけか。
でも、諸葛亮って、大局的に物事を見ることができるし、行政手腕は長けてると思うけど、軍師ではないよね。
『兵法』はもちろん知っているだろうけれど、実際の戦いの場では机上の空論となったのではないかと思うのだけど。
そして、蜀には人材がいない。
だから諸葛亮にすべてが集中するしかない。
でも、ちらっと出て来た諸葛謹(諸葛亮のお兄さん)を見ても、賢いかもしれないけど、図抜けた才能というほどのものは感じられず、つまり、人材がいないからこそ自分を高く売るために諸葛亮は劉備を選んだのかもしれないと思った次第。
いろいろと姑息な人にしか今のところみえない。
なぜ曹操は魏の王どまりで、皇帝にならなかったのか。
これが今まで不思議だったのだけど、周の文王に倣ったのね。
初代は王。
つまり皇帝をたて、皇帝の下で良臣として存在し、二代目が皇帝を名乗る。
賢帝が暗愚かどうかはわからないけれど、少なくとも皇后が反曹操の動きをした時、自分の保身しか考えなかったという点で、大きなマイナス。
自分の妻すら守れない人に、縁もゆかりもない民衆を守れますか?
ちなみに劉備は妻も子もさくっと見捨てます。