多少収まりつつあるとはいえ、未だ猛威をふるっている新型コロナ。

この2年間は、我慢我慢の連続でした。

 

そんな時に悪気なく子どもや学生たちに向けられる「かわいそう」という言葉に、もやっとします。

かわいそうと思うのはいいんです。

それは人それぞれの気持だから。

だけど、「かわいそう」って口に出すのはちょっとなあ。

 

悪気がないとわかったうえで、思っちゃうのです。

かわいそうって言う方は自分の優しさに満足してすっきりするかもしれないけれど、かわいそうって言われた方はどうすればいいんだろう。

 

学校に行けなくて、友だちと会えなくてかわいそう。

行事が中止になってかわいそう。

外で思い切り遊べなくてかわいそう。

 

自分たちが一番残念に思っていることを、他人からかわいそうと言われたらどう思うだろう。

小さな子どもなら、まだ何もわからない状態のうちに他人からかわいそうと言われたら、自分はかわいそうな子どもだと思うかもしれない。

それって、余計なお世話だなあと思うわけです。

 

コロナに限らず、例えば我が家の場合、産休明けから子供を保育園に預けて私が働いているもんで、「お母さんがいるのに保育園に行かされてかわいそう」と、10さん方の親戚には散々言われました。

陰口ならいいけど(?)、子どもに面と向かって「かわいそうにねえ」って言うなよ!って思ってました。

 

「子どもに携帯持たせてないの?かわいそうに」

「単身赴任のお父さんのところに、掃除しに行ってあげないの?かわいそうに」

「高校生にもなって、お小遣がつき5000円?安すぎるよ、かわいそうに」

悪気がないことはわかっているけど、我が家の事情だったり方針だったりするんだから、ほっといて!

っていうか、本当に可愛そうだと思うなら、代わりに携帯買ったり掃除しに行ってあげたりお小遣増額してあげたりしてよ。

何もしないで「かわいそう」だけ言うのは、無責任だと思うな。

 

善意からの気持だとしても、他人から「かわいそう」の目を向けられるのは、子どもだって嫌だと思う。

今、できないかわいそうを教えるのではなく、今、ポジティブになれる何かを見つけられたらいいよね。

それが何かも人それぞれ。

 

「かわいそう」と「うらやましい」は、軽々しく言わないでおこうと思っている私です。

 

 

本日の読書:盤上の向日葵 上 柚月裕子

 

カバー裏より

『平成六年、夏。埼玉県の山中で身元不明の白骨死体が発見された。遺留品は、名匠の将棋駒。叩き上げの刑事・石破と、かつてプロ棋士を志した新米刑事の佐野は、駒の足取りを追って日本各地に飛ぶ。折しも将棋界では、実業界から転身した異端の天才棋士・上条圭介が、世紀の一線に挑もうとしていた。重厚な人間ドラマを描いた傑作ミステリー。』

 

身元不明の白骨死体が持っていた遺留品である将棋の駒の持ち主を探す埼玉県警のターンと、事件の関係者と思われる人物の幼少期のターンが交互に書かれている。

素直に読めば、その少年が事件に深くかかわっていて、何なら殺人犯とも読めるけれど、素直に読んでいていいのだろうか?

 

あまりに過酷な少年時代を送っていた上条圭介少年は、序章で、成功したベンチャー企業の経営者となったにもかかわらず、すべてを捨てて将棋界に乗り込んだ天才棋士ということになっている。

 

あまりにも痛ましい少年時代の圭介の姿。

将棋だけが唯一の楽しみだった。

けれど、将棋を捨てるという選択をした彼は、一体どんな人生を歩んできたのか。

 

それが気になってしまって、実は白骨死体の正体も、自殺か他殺か事故かもわからず、もし他殺だとしたら動機は何なのかも想像すらできないまま上巻を読了。

気になることがいろいろとありすぎて、単行本で借りて一気読みすればよかったと後悔しきり。