Amazonより
『56歳の大原夢路は将来が絶賛不安な元・校正者、両親介護のために仕事をやめ、その上認知症の義父母のケアも…仲良しの旦那はいるけれど、そりゃもうストレスは満載。おかげで最近妙な夢をみる。地震で止まった地下鉄の中に閉じ込められ続けるのだ。友達の冬美と、袖振り合った見知らぬひと達と、そしてもうひとり、人類を捕食するいきもの「三春ちゃん」と!!…それぞれに問題を抱えた大人たちが、自分達の生存と、たまたま居合わせてしまった子供達の未来を守るために戦いを始める。憧れるのは猫のごとき平和な日常、いつか手にしたら、絶対そこから動いてなんかやるものか。でも、それまでは―。』
これは読者を選ぶ作品だなあ。
というか、もはや新井素子の作品のほとんどが、読者を選ぶものになってしまっているのではないかと心配になる。
特徴的過ぎる文体。
それが、50代・60代の熟年男女のセリフとして使われると、長年のファンである私にしても、さすがにきつい。
モノローグで「ほんっとうに」っていう60代男性、50代女性、女子中学生。
「諾(うべな)う」って普通に使う60代男性、50代だ女性、女子中学生。
言葉による性差、年代差がほとんどないのよ。
だけど、これ、自覚的なのだ。
言葉に対する偏愛が過ぎるのだよ、彼女は。
長年のファンはわかっているんだけど、初めて手に取る人はどう思うんだろう。どきどき。
さて、地震で止まった地下鉄の中に閉じ込められた人々。
同じく閉じ込められて困惑する人外のもの。
この設定を読んで私が思い浮かべたのは、彼女のデビュー作の『あたしの中の…』だ。
けれどこの作品は、その数年後に書かれた「いつか猫になる日まで」のアンサー小説らしい。
確かに、人類より次元の高い存在に対して「No!」を言う話っちゃ話だけど、6人の20歳の若者たちの話だった「いつ猫」と違って、基本的に大人が子どもを守るこの作品とは、テイストが全然違う。
日向ぼっこしながらぬくぬく居眠りをしている猫のような日常に憧れる。
だけど、現実はそんな日常からは遠く…。
「いつか猫になる日まで、頑張ってみるけど、理想は猫の生活だから」という20代。
「いつか猫になれたなら、絶対猫からは動いてやんない。だけど今はまだ猫に慣れてないから、人間として頑張る」のが50代。
わかる。わかるよ。
私も猫になりたいもの。
猫になったら絶対猫から動きたくないもの。
でも、一生猫の生活なんかできないんだなあと現実が突きつけられるのよ。
主人公の大原夢路は、両親の介護と認知症の義父母のケアを抱えている設定。
だけど作中でこの設定がほとんど出てこない。
やってる家事は、夫に朝ご飯を作る事のみ。
メインは地下鉄に閉じ込められる夢の話なので、そのほかの人たちの現実の生活も、ほとんど書き割りを背負っているくらいの薄っぺらさ。
そこが、残念だったところ。
多分猫の生活ができる人は、年齢に関係なく猫になれる。
猫の生活に憧れる人は一生猫にはなれない。
作者はそんなことを書きたかったわけではないのだろうけれど、主人公の設定が自分のことのように感じられたので、却って猫になれないことに捕らわれてしまった。
不惑を過ぎても惑ってばかりの私。
