昼間は働いていますし、仕事が終わるとまっすぐ家に帰るので、よくはわかりませんが、最近小さな赤ちゃんを連れた方をよく見かけるようになった気がします。
自粛期間中はあまり見かけなかったと思うんですよ。
だからこれが、私が唯一感じた活気かな。
ただ残念なのは、札幌、急に寒くなってきたので、もこもこ着込んでいる赤ちゃんの顔があまり見えないこと。
妙にニコニコと赤ちゃんを眺めている不審なおばちゃんがいたら、多分私です。笑
最近は『かまいたちチャンネル』のほかに、育児動画をこれでもかというくらい見ているのですが、そのほかに平屋のお宅のルーム・ツアーもすごい勢いで見ています。
誰か私に家を建てられるだけのお金と土地をくれないかなあ。
本日の読書:最後の家族 村上龍
カバー裏より
『引きこもりを続け家族に暴力を振るう二十一歳の秀樹。援助交際で男と出会う女子高生の知美。若い男と不倫をする昭子。会社からリストラされる秀吉。過酷な現実にさらされ崩壊へと向かう内山家。一人ひとりはどうやって生き延びていくのか?家族について書かれた残酷で幸福な最後の物語。テレビドラマ化もされたベストセラー、ついに文庫化。』
家族を守るため、業績不振の会社にしがみつく父親。
朝は自分の淹れたコーヒーを家族にふるまい、晩は家族そろって食事をとる、ことを家族に強要する。
息子はそんな父に反発し、暴力を振るう。
本当は世間に出ていくのが怖い引きこもりなのに。
そんな二人の間で母親は、父を立て、長男の気持を推し量ることに疲れ果てている。
娘は家族を嫌いなわけではないが、顔色を窺いながら暮らす生活は嫌だと思う。
一つ屋根に住んでいながら、家族の気持はばらばらだ。
そもそも父親である秀吉の家族のイメージが、笑えるくらい独りよがりだ。
しかし秀吉は家族のため、リストラの不安におびえながら、そんな素振りを家族には一切見せない(つもりでいる。実際は、家族は秀吉の気分に相当振り回される)。
家族を守るのは自分しかいないのだから。
「○○のためだから××をする」という言葉は「○○のせいで××をしなければならない」と同じ意味になってしまうことはよくある。
「○○のために」は、本当に○○のためになっているのか。
息子・秀樹は、ひょんなことからある人を救うために少しずつ生活を変えていく。
夜型の生活を朝型に変え、コンビニや本屋に出かけることができるようになり、ある人を救えるだろう人たちへ電話をかける。
自分の意見を述べる。相手の言うことを聞く。必要な行動を起こす。
彼の世界は広がってきた。ある人を救うために。
そんな時に言われたひとこと。
「親しい人の自立は、その近くにいる人を救うんです。一人で生きていけるようになること。それだけが、誰か親しい人を結果的に救うんです」
家族のために生きることが、母である昭子の存在意義だったのかもしれない。
夫の世話をし、子どもたちの面倒を見る。
しかし夫は最近いつも不機嫌で、思春期を迎えた子どもたちの考えていることなど、もはやわからない。
昭子はひきこもりの息子のことを相談するために、精神科医やカウンセラーに通っていた。
そこで知り合った大工の延江と親しくなる。
とはいっても、たまにランチを一緒に食べるくらいなのだが。
それでも、自分の仕事に迷いがなく、ひいては自分自身に揺らぎのない延江と話すのは、秋絵にとっていい気晴らしになったことは間違いない。
ただ、28歳の大工が、家族との関係に疲れ切った41歳の人妻の、どこに惹かれたのかが不明。
さらにこれがプラトニックな恋愛であることにも、驚く。
娘の知美は、友だちの紹介で29歳の宝石デザイナーと付き合っている。
といっても、こちらもまたプラトニックなのである。
彼氏である近藤は、勉強のためにイタリアへ行くことにしたが、知美も一緒にどうか、という。
結婚をするわけではない。
ただ、一緒に暮らして、互いにイタリアで何かを学ぶ生活をしないか?と。
これもまた不可解。
「うん、行く」と簡単に言える話じゃないよね、普通。
お金のこと、親を説得すること、高校生にはハードルが高すぎる。
でも、彼ら家族は、共に暮らすことをやめた。やめることを選んだ。自分達で。
けれどその選択は、彼らに家族というものを考えさせ、互いを思いやり、そのためにそれぞれが自立することになった。
昭子は離婚しないまま実家に戻り、延江と交際を続けつつ、夫との絆を今まで以上に感じるのだけど、だったら延江の存在は特に必要なかったような気もする。
この辺りがちょっと出来過ぎかなあ、と思った部分。
家族がバラバラになったことは残念、という感想が結構多いようだけど、別居することがバラバラになったことなのだろうか。
一緒に暮らさなくなったけれども、同居していた頃よりはるかに家族の心は繋がっているんじゃないかなあ。
もたれ合うのではなく、依存するのではなく、ひとりで立ち、家族が必要なときは支えられるだけの力を持つ。
家族は割り当てられた役割を演じる場所なのではなく、自分自身であるための基本であるべきだ。
そのための一つのケースを、村上龍が書いたのだと思う。