昨日読んだ本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中で、上手く考えがまとまらずに書けなかったことを、今日は書きます。
それは「シンパシー」と「エンパシ―」について。
今日もまだ考えがまとまったとは言えないのですが、忘れないうちに。
「シンパシー」は割と日本語の中に浸透していると思うのですが、では正確な意味は?と聞かれるとよくわからない。(最近の外来語ってほとんどそうかも)
「エンパシ―」に至っては、恥ずかしながら全然知りませんでした。
オックスフォード英英辞典によれば、シンパシーとは
1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解
エンパシーは
・他人の感情や経験などを理解する能力
わかるようでよくわかりません。
「シンパシー」のこと、私は親しみとかそういうことだと思っていました。
シンパシーを感じるとか、そんなふうに使っていましたよ。
”つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く環状のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだと思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業ともいええるかもしれない。”
イギリスではこの「エンパシ―」について、中学校のシティズンシップ・エデュケーション(「公民」みたいな)の授業の中で教えているようです。
エンパシーは知的作業だというのだから、それは当然のことなのかもしれません。
翻って、何で日本はこれを教えないのだろう?
お題目のように「他人(ひと)の気持になって考えてみましょう」というのに、その方法論がないような気がします。
どうやって他人の気持ちになればいいの?
イギリスでは「自分で誰かの靴を履いてみること」という慣用句のような言葉があるのだそうです。
もちろん、「エンパシ―」を教えればいじめや差別がなくなるなんては考えていません。
イギリスのいじめの壮絶さは、結構前から読んだり聞いたりしましたから。
でも、同じ考えの人ばかりではない、ということを、幼いうちから教えておかねばいけないのでは?
自分の正しさは、絶対的な正しさではない、ということも。
理解って寛容の中から生まれるんじゃないだろうかと思ってしまったのは、ちょっとユリウス・カエサルにかぶれ過ぎでしょうか。
梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』のなかに、「理解はできませんが、尊重します」という言葉が出てきます。
彼女がイギリスに留学していた時の、下宿のマダムの言葉が元にあるのですが、コミュニケーションの根幹ってそういうことだなあと強く思った言葉です。
「理解はできませんが、尊重します」から、「理解できるよう努力します(もちろん尊重も)」に一歩進めようと『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだあと思ったのでした。
ふう、最近の読書はちょっとヘビーだぜ。
本日の読書:パソコンが奪った漢字を取り戻せ! 守誠
Amazonより
『この本は、パソコンがわれわれから奪った漢字力を取り戻すためにつくられた、「書籍」と「ノート」とが一体化した本です。学校、職場、家庭で、みんなでワイワイやりながら、遊び感覚で読んでください。』
この本を買った時(20年くらい前?)、私も「そうだ!そうだ!パソコンのせいで漢字が書けなくなったんだ」と思ったものだ。
だから漢字検定の勉強もしたし、今でも職場の中では圧倒的に手で字を書いていると自負している。自慢にはならないが。
でも、やっぱり書けない。
年々書けなくなっている。
なんでやねん。
答もこの本に書いてありました。
”毎日、記憶細胞が減っているので、どんどん漢字を忘れる。”
なーんだ、全然パソコンのせいじゃなかったじゃん。
いや、忘れるからこそ、忘れるペース以上に覚え続ける訓練も必要なのだろうけれど。
この本が出た当時、島根県のとある市が、町内で週に一度の「パソコンノーデー」を作ったそうだ。
「行政は人間相手の仕事なのに、パソコンやワープロに向かってさえいれば仕事をしていると勘違いしている若手職員が多い」のがその理由。
稟議書もすべて手書きに改める…っていうのは、行き過ぎのような気がするけど、まだ生きているのかしら。
河野大臣の脱印鑑アピールのせいで、役所は未だに印刷した紙に印鑑を押して決裁を回しているように思われているけれど、国の機関は全省庁統一の文書システムで、電子決裁が当たり前。
うちの職場は100%電子なので、仮に手書きの稟議書でないと受け付けないと言われたら、手書きの紙をPDFにしなければならない。
紙と印鑑に頼っているのは、予算の余裕がない小さな部署か、霞ヶ関くらいだと思うわ。
霞ヶ関はねえ、証拠を残さず文書の改ざんをするために(?)、または緊急やむをない処理が必要なために、紙を持って担当者が回る式の決裁がまだ多いようです。(私が見た範囲では)
閑話休題。
読んだり書いたりの問題を解きながら、漢字について学んでいくのは大変面白いのだけど、一つ、これは間違いだろうという箇所があって、とても気になった。
送り仮名のない漢字の読み問題の後、送り仮名のある漢字の問題が載っているのだが、「拉致」「癌」「無垢」「傀儡」「喋り」…って。
どうも、フリガナのことを送り仮名と言っているっぽい。
新聞や雑誌からの抜き出しだというから、原典に当たらないと確かなことは言えないけれど、「拉致」も「癌」も送り仮名なんて必要ない。
「喋り」の「り」みたいのを送り仮名という。
編集部は何も思わなかったのだろうか?
面白かったのが、「卍」についてのコラム。
学生とのやり取りが書いてある。
「卍は記号なのか、それとも漢字なのか」
「それは、先生、記号でしょう。まさかこんな記号のような漢字はないと思うので」
「この卍は《まんじ》と読んで、立派な漢字なんだよ」
「へぇー、それは知らなかった」
最後の一文はやはり「マジ、マンジ~?」って言って欲しかったな。
当時このフレーズがなかったことは知っているけどさ。
さて、最後に、私が思うパソコンのありがたさは、「憂鬱」とか「黴」などの画数の多い文字を拡大して確認できること。
漢和辞典を拡大鏡で覗き込んでも、わかりにくい文字はわかりにくい。
ただしフォントによっては正確といえない場合もあるので、点の位置や、角度、などを正しく知りたい時は、教科書体で確認することが望ましい。