今日もベランダでお昼ご飯を食べました。
日向だと暑いので、今日は西側の日陰になっている方のベランダで。
風が穏やかで気持ちよかったので、ずっと日向ぼっこしていたかったくらいでした。日陰だけど。

 
薄~い雲はありますが、ど晴天。
先週末美容院に行ったときは、ようやく20度を超えたくらいでしたが、それでも「暑い~。日陰探して歩いてるのよ。まだ6月なのに、夏が怖いわ~」なんて言ってたお客さんがいらっしゃいましたが、今日は25度超えましたかね。
それにしても、20度超え程度で日陰は探さんな。さすがの私も。
 
 
本日の読書:新編 日本の面影 ラフカディオ・ハーン

 

 


カバー裏より
『美しい日本の人々と風物を印象的に描いたハーンの代表作『知られぬ日本の面影』を新編集。松江を活写し、日本人の精神にふれた傑作「神々の国の首都」、西洋人として初の正式昇殿を許された出雲大社の訪問記「杵築――日本最古の神社」、微笑の謎から日本人の本質に迫る「日本人の微笑」など、ハーンのアニミスティックな文学世界、世界観、日本への想いを色濃く伝える11編を詩情豊かな新訳で収録。ハーン文学の決定版!!』

目次
・はじめに
・東洋の第一日目
・盆踊り
・神々の国の首都
・杵築――日本最古の神社
・子供たちの死霊の岩屋で――加賀(かか)の潜戸(くけと)
・日本海に沿って
・日本の庭にて
・英語教師の日記から
・日本人の微笑
・さようなら

まずラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に「ありがとう」と感謝を述べたい。
当時、極東の未開国扱いだった日本の良いところをこんなに見つけてくれて、世界に発信してくれて。

今、誰かが「神の国・ニッポン」などと言おうものなら炎上間違いないけれど、彼が日本にいた明治の後期、日本はまだ神と共に在る国だったんだなあ。
それは、神である天皇のために死ぬなんてことでは全然なくて、神の前に恥ずかしくない存在であるために、自身に誇りをもった生き方であったように思える。
今の殺伐とした日本の姿を見たらハーンはなんと思うだろう。

生活の隅々に神仏の存在を感じながらも、ハーン自身は仏教より神道を上と見ている。
”仏教には、膨大な教理と深遠な哲学があり、海のように広大な文学がある。神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない。ところが、あまりにも実体がないことで、他の東洋の信仰ではありえなかったことであるが、西洋の宗教の侵入に抵抗することができたのである。”
確かに浸透には抽象理論がないと思います。
だって、「やまとことば」には、抽象的概念を表現する言葉がありませんから。
ということは、古代の日本人は、抽象的な理論を考える手段がなかったということです。
だからこそ中国の文化に触れて、目からうろこの大興奮だったのではないでしょうか。

「日本の文化に比べれば、西洋の文化のなんて野蛮なこと!」と、ハーンはかなり力を込めて主張する。
例えば花を活けるということについても、以下のとおり。
”(日本の生け花は)ただ花瓶に枝を投げ入れているだけではないのだ。枝を剪定し、形を決め、美しく生けるまで、もしかしたらまるまる一時間はかかっているのかもしれないのである。だから今となっては、西洋人が「ブーケ」と呼んでいる花束などは、花を生殺しにする卑劣な行為であり、色彩感覚に対する冒瀆であり、野蛮で忌々しい蛮行に他ならないと思うようになった。”
いやいや、さすがにそれでは敵を増やすだけじゃろう。

”都会の人ならホトトギスの声を耳にすることもなく、一生を終えることになるかもしれない。鳥籠で飼おうとしても、ホトトギスは鳴かないまま死んでしまうからだ。”
なるほど。
そのうえでの、三武将のホトトギス句なわけね。
勉強になりました。

教師としてのハーンの言から2つ。
”教師は、自分の考えを生徒に押しつけようとしたりはしない。教師は、決して頭から𠮟りつけるようなことはせず、生徒を非難することもめったになく、懲罰を与えるようなことは決してない。日本の教師で生徒を殴る者はいない。もしそのような行為をしたら、その教師はすぐに職を追われるだろう。平静さを失って怒ることもない。そんなことをすれば、教え子たちや、同僚たちの目の前で、自分を貶めたことになるからである。”
ハーン先生は、西洋の教師の真逆の教育姿勢を持つ日本の教師をべた褒めなのだけど、私としては「え?そうなの?」と思うことしきり。

”西洋の学校においては、規律が必要だと考えられているが、日本の学生たちは、ある種の自主独立を主張し、これを享有している。”
自主独立こそ、日本人が持たない行動様式だと思っていました。

”日本人は決して生真面目で深刻とはいえない。うわべも本音も、われわれイギリス人よりずっと深刻でない民族と比較してさえ、そう言うことができるだろう。日本人は、深刻さに欠けている分だけ、より幸せなのであり、多分現在でも、文明化された世界では最も幸せな国民であると思う。”

日本人はいつ、自分が幸福であると思えなくなってしまったのか。
確かに江戸時代の日本人って、生活は苦しくあったし、悲惨な出来事も多かったけれど、物見高くて陽気な、結構アジアな人たちだったんだよね。