ラーメンが好きだったかな。

人肌ほどに冷めたスープに、のびたソフト麺。

どう考えても食べるに適さない先割れスプーンで食べるラーメン。

シュールだねぇ。

だけど美味しかった。

嬉しかった。

 

この間、10さんと話したこと。

昔大好きだったゆで上げスパゲッティのお店に久々に行ったとき、あまりのまずさに「もう二度とこの店には来ない」と、珍しく10さんが思ったという話。

何度も何度も「昔は美味しかったのに、なんであんなにまずいものを平気で出すようになっちゃったんだろう」と言うので、たまたまそのとき食べたのがゆですぎてのびた麵だったからなのか、味に無頓着になっちゃったのかはわからないけど、私たちが子どもの頃はアルデンテってなかったよねって話になって。

 

いつの間にかパスタの麺は少し芯の残るアルデンテではなければならなくなったけど、子どもの頃はそんなの全然関係なくって、歯茎でも嚙み切れるくらいの麺でも喜んで食べていた。

ソースの味はさておいて、本当に麺は硬くなければだめなのか。

それはただ、知識として知ってるから頭が判断しているだけなのではないか。

それは洗脳だったり、習慣だったりと何が違うのか。

 

ってなことを、まずかったスパゲッティ屋さんの味を思い出しながら10さんと話す。

正直言って本当にまずかったのかはもう覚えていない。

ただ、麺が柔らかすぎたのがショックだったのは確かだ。

本当においしいって、どういうことなんだろう。

 

 

本日の読書:地の星 流転の海 第二部 宮本輝

 

 

カバー裏より

『五十歳で初めて子を授かった松坂熊吾は、病弱な妻子の健康を思って、事業の志半ばで郷里に引きこもった。再度の大阪での旗揚げを期しつつも、愛媛県南宇和の伸びやかな自然の恵みのなかで、わが子の成長を身まもる。だが、一人の男の出現が、熊吾一家の静かな暮らしを脅かす……。熊吾と男との因縁の対決を軸に、父祖の地のもたらす血の騒ぎ、人間の縁(えにし)の不思議を悠揚たる筆致で綴る。』

 

五十歳をすぎてようやく授かったわが子は非常に身体が弱かったので、大阪での事業を処分して、故郷愛媛の南宇和に戻った熊吾。

それから2年、伸仁は健康になり、妻の房江もまた田舎の生活になじんでいるようで、このまま南宇和で生涯を過ごしてもいいと思いはじめる熊吾。

 

しかし、そこに現われたのが、子ども時代の熊吾との相撲のせいで片足に一生残る障害を負った「わうどうの伊佐男」だ。

特別に残虐な極道となった伊佐男の執拗な嫌がらせに、不穏な空気が全編に渡って漂う今作は、しかしなかなか読みごたえのあるものだった。

 

一年の間に熊吾の周辺にいくつもの死が訪れる。

それは悪いことが起きる予兆のようでもあり、運命の動く転換点のようでもある。

 

主人公である熊吾は、器が大きく、先見の明があり、情に篤い人間であるが、反面、短気で暴力的な面もあり、一言では言えない複雑な人物造形はとても魅力的である。

第一部で、学のないのがコンプレックスと言っていたが、その割には古典や漢文の造詣も深い。

今は、一人息子の伸仁を無事に成人させることが生きる目標となっている。

 

南宇和では人々は貧しく、狭い人間社会の中で、息苦しかったり足を引っ張りあったりもするが、最終的には助け合わねば生きて行けないのだ。

熊吾はそれを踏まえながら、故郷の人々に金を貸し、力を貸し、知恵を貸す。

そのことがまた、新たな物語を創り出していく。

 

いろんなことにけじめをつけて、時間は熊吾がまた大阪に戻ってくる。

波瀾万丈な物語はまだ続く。

 

仏教では法華経以外の経では、二乗とと女人も成仏を説かなかったのだそうだ。

女人はさておき、二乗とはインテリのこと。

なぜ二条は成仏できないのかについての熊吾の見解。

 

”インテリは、他人のことに無関心なやつが多い。他人のために自分の心を傾けたり、他人の苦労を思いやって、何かを行動するっちゅうことがない。いっつも傍観者で、そのくせ屁理屈を並べて、自分よりも知識のない人間を腹の底では見下しちょる。まあ、つまりエゴの塊みたいで、そういう手合いは成仏できんちゅうんじゃ。”

 

最近はインテリじゃなくてもそういう手合いはいるなあ、と思った次第。