退院したばかりの頃は、和泉元彌もびっくりなそろりそろりぶりでしたが、最近は少しスピードアップしてしずしずと歩けるようになりました。
明日は退院後初めての通院。
台風の影響がなければいいと願っています。
さすがに大風の中を傘さして歩ける自信はないので。
普通は2週間入院したら、退院後はすぐに職場復帰できると先生はおっしゃっていましたが、今に至るまで職場復帰できる気がしません。
だって夜は8時間くらい寝ているのに、昼寝もしてるんですよ。
で、動きは和泉元彌を卒業したとはいえ、まだまだとろい。
職場に拘束されている9時間の他に往復3時間かかる生活に、てきぱき動かないとあっという間に一日が過ぎ去ってしまう生活に、適応できる気がしません。
それでも、ご飯を食べたりシャワーを浴びるたびに熱が出ていた頃とは違って、今は一日を通して平熱をキープ。
背もたれに寄りかからなくても座っていられる時間も増えました。
体力が戻ってきつつあるのは確かなので、焦らずゆっくり養生しましょう。
…と、明日先生に言われるんだろうなあ。
8月12日の読書:敗戦日記 高見順
カバー裏より
『「書け、病のごとく書け」と、自らを追いつめるほどに創作の意味を問い続けた”最後の文士”高見順が遺した戦中日記。そこには貸本屋「鎌倉文庫」設立の経緯、文学報国会の活動などが詳細に記録されており、戦時下に成し得ることを模索し、文学と格闘した作家の姿がうかがえる。膨大な量の日記から昭和二十年の一年間を抜粋収録。』
山田風太郎の戦中日記を読んだときは、その旺盛な食い意地に笑ってしまった。
何しろ若かったから、食べることだけが楽しみだというその文章に、実に説得力があったのだ。
けれどこの日記を書いたとき、高見順は39歳。
それなりの大人なのである。
鎌倉に住みながら、仕事のためにしょっちゅう東京に出てきては、戦時下の東京を記録する。
灯火管制の下、配給品以外(つまり闇)の酒を飲むために店を探し、伝手を手繰る。
かと思えば、芝居小屋や映画館に並ぶ人々の様子が描かれる。
死ぬか生きるかの瀬戸際でも、人は楽しみを求めるのだなあということがわかる。
文学報国会に属し、従軍記者として記事を書いたこともある高見順は、しかし決して戦争を賛美してはいない。
日本の主張をどうして他国は理解してくれようとしないのか?
日本はもっとやれるはずじゃなかったのか?
マスコミの煽りのひどさに国民はとっくに冷め切っているのだから、マスコミももっと正直な記事を書かねばならないのではないか。
作家というよりは、一般の国民としての感想であろう。
そもそもなぜ文学報国会なるものに参加しているのかというと、参加しないと『執筆禁止』とされてしまうかもしれないから。
書くことの自由はそこにはない。
だから活動が嫌で嫌で、毎回しぶしぶ会合に出ていくのである。
作家としての自分に対するプライドが高く、例えば鎌倉在住の作家たちで貸本屋を設立した時、「番頭役」を受け持つのだけど、作家から番頭に成り下がったと愚痴る。
奉仕作業の役に立てない非力な自分を自覚しつつ、決して自分はルンペンではない作家なのだと言い募る。
東京が空襲で焼け野原になり、本土決戦が行われるとしたら鎌倉も危ないのではないかと心配する。
しかしお金がないから疎開ができない。
金持ちはいつもいい目を見て、庶民はいつも何もできないと愚痴る。
身体は一人の国民としてそこにあるのに、意識はいつも一段上にいてイライラしているような、そんな文章。(中二病?)
沖縄に出兵して亡くなった友人を偲ぶけれど、住んでいた場所が戦場になった沖縄の人について思いをいたすことはない。
本土決戦に心配をするだけだ。
敗戦にあたって、日本人が中国で現地の人たちにしたことを考えると、どれだけひどいことを進駐軍にされるかと怯えていたが、ふたを開けたら、日本政府が自国民から奪った数々の自由と権利を進駐軍が日本人に返してくれたことに感謝をしてる。
”南樺太、千島がソ連に取られる。それはいい。それは仕方ない”
本州に住む人の、これは本音なんだろうなあと思う。
樺太の、真岡郵便局の電話交換手の少女たちが、迫りくるソ連兵に怯えながらも職務を遂行し、最後まで任務を遂行した後自決した、なんて事実は現代どころか当時も全然ニュースになってはいなかったんだという衝撃。
自分たちが行ってしまったことの大きな過ちを、被害を書きながら、反省の弁はほとんどない。
あまりに正直に書かれた日記であるがゆえに、読んでいて非常にイライラした。

明日は退院後初めての通院。
台風の影響がなければいいと願っています。
さすがに大風の中を傘さして歩ける自信はないので。
普通は2週間入院したら、退院後はすぐに職場復帰できると先生はおっしゃっていましたが、今に至るまで職場復帰できる気がしません。
だって夜は8時間くらい寝ているのに、昼寝もしてるんですよ。
で、動きは和泉元彌を卒業したとはいえ、まだまだとろい。
職場に拘束されている9時間の他に往復3時間かかる生活に、てきぱき動かないとあっという間に一日が過ぎ去ってしまう生活に、適応できる気がしません。
それでも、ご飯を食べたりシャワーを浴びるたびに熱が出ていた頃とは違って、今は一日を通して平熱をキープ。
背もたれに寄りかからなくても座っていられる時間も増えました。
体力が戻ってきつつあるのは確かなので、焦らずゆっくり養生しましょう。
…と、明日先生に言われるんだろうなあ。
8月12日の読書:敗戦日記 高見順
![]() | 敗戦日記 (中公文庫BIBLIO) 1,285円 Amazon |
カバー裏より
『「書け、病のごとく書け」と、自らを追いつめるほどに創作の意味を問い続けた”最後の文士”高見順が遺した戦中日記。そこには貸本屋「鎌倉文庫」設立の経緯、文学報国会の活動などが詳細に記録されており、戦時下に成し得ることを模索し、文学と格闘した作家の姿がうかがえる。膨大な量の日記から昭和二十年の一年間を抜粋収録。』
山田風太郎の戦中日記を読んだときは、その旺盛な食い意地に笑ってしまった。
何しろ若かったから、食べることだけが楽しみだというその文章に、実に説得力があったのだ。
けれどこの日記を書いたとき、高見順は39歳。
それなりの大人なのである。
鎌倉に住みながら、仕事のためにしょっちゅう東京に出てきては、戦時下の東京を記録する。
灯火管制の下、配給品以外(つまり闇)の酒を飲むために店を探し、伝手を手繰る。
かと思えば、芝居小屋や映画館に並ぶ人々の様子が描かれる。
死ぬか生きるかの瀬戸際でも、人は楽しみを求めるのだなあということがわかる。
文学報国会に属し、従軍記者として記事を書いたこともある高見順は、しかし決して戦争を賛美してはいない。
日本の主張をどうして他国は理解してくれようとしないのか?
日本はもっとやれるはずじゃなかったのか?
マスコミの煽りのひどさに国民はとっくに冷め切っているのだから、マスコミももっと正直な記事を書かねばならないのではないか。
作家というよりは、一般の国民としての感想であろう。
そもそもなぜ文学報国会なるものに参加しているのかというと、参加しないと『執筆禁止』とされてしまうかもしれないから。
書くことの自由はそこにはない。
だから活動が嫌で嫌で、毎回しぶしぶ会合に出ていくのである。
作家としての自分に対するプライドが高く、例えば鎌倉在住の作家たちで貸本屋を設立した時、「番頭役」を受け持つのだけど、作家から番頭に成り下がったと愚痴る。
奉仕作業の役に立てない非力な自分を自覚しつつ、決して自分はルンペンではない作家なのだと言い募る。
東京が空襲で焼け野原になり、本土決戦が行われるとしたら鎌倉も危ないのではないかと心配する。
しかしお金がないから疎開ができない。
金持ちはいつもいい目を見て、庶民はいつも何もできないと愚痴る。
身体は一人の国民としてそこにあるのに、意識はいつも一段上にいてイライラしているような、そんな文章。(中二病?)
沖縄に出兵して亡くなった友人を偲ぶけれど、住んでいた場所が戦場になった沖縄の人について思いをいたすことはない。
本土決戦に心配をするだけだ。
敗戦にあたって、日本人が中国で現地の人たちにしたことを考えると、どれだけひどいことを進駐軍にされるかと怯えていたが、ふたを開けたら、日本政府が自国民から奪った数々の自由と権利を進駐軍が日本人に返してくれたことに感謝をしてる。
”南樺太、千島がソ連に取られる。それはいい。それは仕方ない”
本州に住む人の、これは本音なんだろうなあと思う。
樺太の、真岡郵便局の電話交換手の少女たちが、迫りくるソ連兵に怯えながらも職務を遂行し、最後まで任務を遂行した後自決した、なんて事実は現代どころか当時も全然ニュースになってはいなかったんだという衝撃。
自分たちが行ってしまったことの大きな過ちを、被害を書きながら、反省の弁はほとんどない。
あまりに正直に書かれた日記であるがゆえに、読んでいて非常にイライラした。

