今日も休日出勤(サービス)。
一応頼まれた仕事は終わったんだけど、もう少しクオリティを高めたいと思って。
プロジェクションマッピングを投影したら誤魔化せそうな気もするんだけど、高校生にはもう少しいいものを見せたい、と。
ところが機械が全然動かなくて、2時間奮闘したけどあきらめて帰ってきました。
無駄に青い空。
夏みたいでしょ?

トレッキングシューズを履いて快適に歩いて帰る。
さすがに厚い靴底は、足に優しくて楽ちんです。
土踏まずもジャストフィット。
どこまでも歩けそう。家までだけど。

本当は夕方までかかる予定だったから、カーディガンを着てニット帽をかぶってきちゃったので真昼の帰り道が暑い。
しかし私は汗をかけないので(冷汗はOK)、みるみるむくんで手の指がパンパンに膨らんできます。
コンパスを刺して汗腺を作りたいくらいだよ、全く。
もうひとつの問題は、私の歩き方って腿が上がってないのよね。
武士はすり足が基本じゃからの。
しかし登山にこの歩き方でいいのだろうか?
武士の山越えは、やっぱりすり足なのか?←そもそも誰が武士じゃ
しょうがない、3回に1回くらいはながらジョギングをながら踏み台昇降にするか。
歩いたり階段を下りたりだけではなくて、時間があるときはWiiでテレビを見ながらジョギングという名の足踏みをどすどすしてたりもします。
この真面目な体力作りをあと30年早く始めていたら…。30年前にWiiはないけど。
踏み台昇降はきついからやりたくないなー。うーん。5回に1回にするか。
昨日女子会から戻って、さすがにながらとはいえ足踏みとはいえジョギングしたくなかったので、体幹のチェックだけ。
ビール5杯とカシスソーダ1杯飲みましたが、重心はほぼ真ん中でした。ひゃっほう!
バランス年齢30歳はいつもより若干悪いけど(たいてい20代なのさ。エッヘン)、飲んだ後だからね。
大変気をよくして体重を見ると、昨日より600g減っている。
え?おかしくない?
結構お腹にぼってりと水炊きやら手羽先やら湯葉巻やら餃子やら入ってますけど…。
Wiiは「おめでとー!頑張ったねー!」ってホメてくれるけど、大丈夫なのか?
今さらだけど、信頼していいのか不安になる。
しかし我が家にあるもうひとつの体重計は、部屋によって体重が変わるという、地球の重力を無視した数値を出してくる奴だからなあ。
でもまあ大事なのは、登山に必要な体力と脚力だよ。
体重のことは考えないことにしよう。
ぬか喜びだったら悲しいからね。
本日の読書:吉本隆明が語る戦後55年 10 わが少年時代と「少年期」 吉本隆明
Amazonより
『日本の知的言動が麻痺している今、吉本思想を基軸に、20世紀の世界思想を再検証。「新佃島と祖父母の記憶」「船大工の父と船造りの技術」「衰退していく都市の特徴」などを収録。』
吉本隆明といったって、よしもとばななの父さんであることくらいしか知らない。
詩人であり評論家であるそうだけど、いったい何の評論家なのかも知らないし。
10数年前にこの本を紹介してくれた人の本意がどこにあるのかも忘れちった。
「少年時代」についての鼎談と「心的現象」についての評論。
「心的現象」というのが一般的に通じる概念なのか、吉本隆明の本を読む人ならば常識として知っていることなのかはわからないけれど、私にとっては初めて聞く言葉。
幻覚や幻聴が精神的、心理的に人に与える影響、またはその逆ベクトルっていうことなのかな。
「心的現象」についての研究についてを、吉本隆明が論じるという形。
最初その構造がわからなくて、研究と著者の間にある距離に戸惑った。
構造がわかったところで論文そのものが難しいことに変わりはないけれど、精神状況によって幻覚の見え方が変わってくるというのは面白いと思った。
“僕らは、芥川は堀辰夫と似ているけれども、堀辰夫とは違う表現の仕方ができたのではないかと思えてならないんですね。それはひとくちに言うと、中野重治よりもプロレタリア的と言いましょうか、都市労働者的な世界を描いて、変なプロレタリア文学、クソリアリズムにならない方法を芥川という人は作れる可能性があったのではないかということです。”
なるほど。
そんなこと考えたこともありませんでした。
プロレタリア文学っていうのはどうも、思想や観念が先に立ちすぎて苦手なんだけど、芥川の書くクソリアリズムにならないプロレタリア文学だったら読んでみたかったかも。
村上龍や山田詠美に関しても、作者にきちんとイデオロギーが出来てしまっているので、同じようなことを違う人相手に何回も繰り返すだけで、ちっともいい文体ではないし、いい小説でもないとばっさり。
“昆虫が糞を丸めてころがしたりしているのをファーブルは精密に観察しているわけですが、こういうおじいさんは日本人にはいないなという感じでした。日本人は役に立つことしかしない。”
牧野富太郎…。

一応頼まれた仕事は終わったんだけど、もう少しクオリティを高めたいと思って。
プロジェクションマッピングを投影したら誤魔化せそうな気もするんだけど、高校生にはもう少しいいものを見せたい、と。
ところが機械が全然動かなくて、2時間奮闘したけどあきらめて帰ってきました。
無駄に青い空。
夏みたいでしょ?

トレッキングシューズを履いて快適に歩いて帰る。
さすがに厚い靴底は、足に優しくて楽ちんです。
土踏まずもジャストフィット。
どこまでも歩けそう。家までだけど。

本当は夕方までかかる予定だったから、カーディガンを着てニット帽をかぶってきちゃったので真昼の帰り道が暑い。
しかし私は汗をかけないので(冷汗はOK)、みるみるむくんで手の指がパンパンに膨らんできます。
コンパスを刺して汗腺を作りたいくらいだよ、全く。
もうひとつの問題は、私の歩き方って腿が上がってないのよね。
武士はすり足が基本じゃからの。
しかし登山にこの歩き方でいいのだろうか?
武士の山越えは、やっぱりすり足なのか?←そもそも誰が武士じゃ
しょうがない、3回に1回くらいはながらジョギングをながら踏み台昇降にするか。
歩いたり階段を下りたりだけではなくて、時間があるときはWiiでテレビを見ながらジョギングという名の足踏みをどすどすしてたりもします。
この真面目な体力作りをあと30年早く始めていたら…。30年前にWiiはないけど。
踏み台昇降はきついからやりたくないなー。うーん。5回に1回にするか。
昨日女子会から戻って、さすがにながらとはいえ足踏みとはいえジョギングしたくなかったので、体幹のチェックだけ。
ビール5杯とカシスソーダ1杯飲みましたが、重心はほぼ真ん中でした。ひゃっほう!
バランス年齢30歳はいつもより若干悪いけど(たいてい20代なのさ。エッヘン)、飲んだ後だからね。
大変気をよくして体重を見ると、昨日より600g減っている。
え?おかしくない?
結構お腹にぼってりと水炊きやら手羽先やら湯葉巻やら餃子やら入ってますけど…。
Wiiは「おめでとー!頑張ったねー!」ってホメてくれるけど、大丈夫なのか?
今さらだけど、信頼していいのか不安になる。
しかし我が家にあるもうひとつの体重計は、部屋によって体重が変わるという、地球の重力を無視した数値を出してくる奴だからなあ。
でもまあ大事なのは、登山に必要な体力と脚力だよ。
体重のことは考えないことにしよう。
ぬか喜びだったら悲しいからね。
本日の読書:吉本隆明が語る戦後55年 10 わが少年時代と「少年期」 吉本隆明
Amazonより
『日本の知的言動が麻痺している今、吉本思想を基軸に、20世紀の世界思想を再検証。「新佃島と祖父母の記憶」「船大工の父と船造りの技術」「衰退していく都市の特徴」などを収録。』
吉本隆明といったって、よしもとばななの父さんであることくらいしか知らない。
詩人であり評論家であるそうだけど、いったい何の評論家なのかも知らないし。
10数年前にこの本を紹介してくれた人の本意がどこにあるのかも忘れちった。
「少年時代」についての鼎談と「心的現象」についての評論。
「心的現象」というのが一般的に通じる概念なのか、吉本隆明の本を読む人ならば常識として知っていることなのかはわからないけれど、私にとっては初めて聞く言葉。
幻覚や幻聴が精神的、心理的に人に与える影響、またはその逆ベクトルっていうことなのかな。
「心的現象」についての研究についてを、吉本隆明が論じるという形。
最初その構造がわからなくて、研究と著者の間にある距離に戸惑った。
構造がわかったところで論文そのものが難しいことに変わりはないけれど、精神状況によって幻覚の見え方が変わってくるというのは面白いと思った。
“僕らは、芥川は堀辰夫と似ているけれども、堀辰夫とは違う表現の仕方ができたのではないかと思えてならないんですね。それはひとくちに言うと、中野重治よりもプロレタリア的と言いましょうか、都市労働者的な世界を描いて、変なプロレタリア文学、クソリアリズムにならない方法を芥川という人は作れる可能性があったのではないかということです。”
なるほど。
そんなこと考えたこともありませんでした。
プロレタリア文学っていうのはどうも、思想や観念が先に立ちすぎて苦手なんだけど、芥川の書くクソリアリズムにならないプロレタリア文学だったら読んでみたかったかも。
村上龍や山田詠美に関しても、作者にきちんとイデオロギーが出来てしまっているので、同じようなことを違う人相手に何回も繰り返すだけで、ちっともいい文体ではないし、いい小説でもないとばっさり。
“昆虫が糞を丸めてころがしたりしているのをファーブルは精密に観察しているわけですが、こういうおじいさんは日本人にはいないなという感じでした。日本人は役に立つことしかしない。”
牧野富太郎…。
