今年、蚊に刺された?

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刺された、刺された!
10さんの実家に行った時、お墓参りの最中自分の足にたかる蚊を見たときの衝撃!
お墓から戻る道すがら10さんに「ムヒ買って」とおねだりしました。

長男もくるぶしを2~3か所刺されてムヒを塗り、私も両足両手にがっつりムヒを塗り、義理の兄姉に「ムヒどうぞ」と言ったら、「私たちは別に…」
そう、ほぼ私が集中的に刺されたのでした。
新しいアンクレットですか?ってくらい足首がぐるっと腫れた私。
全然大丈夫な皆様。
いったい何が違うの?
私の何が悪かったの?

でも札幌に帰ってきて思ったの。
今年蚊取り線香を焚いてないなあ。
今年の札幌の蚊的状況はどうだったのでしょう?
私は全然会ってないです。


本日の読書:船に乗れ! Ⅰ 合奏と協奏 藤谷治

カバー裏より
『若きチェリスト・津島サトルは、芸高受験に失敗し、不本意ながら新生学園大学付属高校音楽科に進む。そこで、フルート専攻の伊藤慧やヴァイオリン専攻の南枝里子と出会った津島は、夏休みのオーケストラ合宿、初舞台、ピアノの北島先生と南とのトリオ結成、文化祭、オーケストラ発表会と、新しい一年を過ごし……。
本屋大賞にノミネートさされるなど、単行本刊行時に称賛を浴びた青春音楽小説三部作、待望の文庫化。』

読み始めて30ページくらいして一度中断。
大人になった語り手が、自分の高校時代を思い出して若者に語りかける自意識の過剰や、若気の至り。
それをもってまわったような言い回しで語る。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
よほどリタイヤしようと思ったが、読み進めるうちに青春のあんなこんなよりも、目に見えないはずの音楽の描写に惹かれてぐいぐいと読み進める。

芸大付属高校の音楽科。
クラシック音楽について情緒的に語る、または本で得た知識の焼き直しでは伝わらない、曲が持つ力強さや流れのようなものを、楽譜を読み解き分析することによって目に見えるように伝える力が圧倒的に強い作品。

私なんかよりも音楽をよく知っている人の方がより理解できる作りになっているのではないだろうか。
正直、人物の造詣についてはまだまだ足りないと思えるところも多いし、語り手の未来がある程度透けて見える部分も多いのだけれど、若い頃の自意識と守られていることの安心。
相反する二つの心のベクトルのバランスが、身につまされるほどに緊張を伴って迫ってくる。

“アンサンブルには二種類ある。「合奏」と「協奏」だ。全員がひとつの音楽を奏でるために、気持ちをひとつにして、大きなハーモニーを作り上げていくのが、合奏。自分が全体の部分であることをわきまえて、一人ではできない音楽を全員でめざす。(中略)反対に、一人ひとりがせり合って、隙あらば自分が前に出ようとする、ときにはそのために共演者の音を食っていこうとさえする、それが僕のいう「協奏」だ。そこでは人を引き立てるために自分は我慢するとか、相手の腕前に合わせるとか、そんなことはしない。誰もが自分こそ主役だと主張して音を出す。たとえば、協奏曲とはそういう音楽だと思う。”

「合奏」のようなことを強要されることは、割とよくある。
けれど、「協奏」することによってたがいに成長したり、ただ単純に自己を表現することの快感だったりは、あまり世間では言われないことだけど、人生に必要だと思う。

音楽だけではなく、スポーツでもなんでも。
自分を主張して、主張している相手を尊重して、思いもかけない一面を発見しながら人は成長していくのだから。
そして、こういう経験を通して、人は他人を全否定しないことを学んでいくのだから。

作中、倫社の授業風景に結構なページを割いている。
クラシック音楽と哲学の親和性はわかるけど、ソクラテスと弟子の対話のような倫社の授業は、実際には無理だと思うので、クラシック音楽を勉強している学生は、ここの部分だけでも読んでおくとよいと思う。


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