ボケボケなのが気になるけれど、これなら大丈夫。
昨日も冷房いれずに寝ましたからな。
だけどこれ、なんで今週?
他の週だったらクーラー持ってないから楽勝だったのに。
よりによって東京滞在時にこれか。しかもクリアしたところで凶ではないというだけ。
吉の保証はないのだね。がっくし。orz


本日の読書:忘れられた巨人 カズオ・イシグロ

Amazonより
『『わたしを離さないで』から十年。待望の最新長篇!
アクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため、長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士……さまざまな人々に出会いながら、雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとは――。
失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描く、ブッカー賞作家の傑作長篇。』

うーん、これはどう読んだらいいのだろう。

アーサー王がほんの少し前までまだ生きていた時代のイギリス。マーリンの魔法がまだ残っている頃。

アクセルとベアトリス夫妻は、村はずれの家で夜にろうそくを使うことも許されず、村の人に一線を引かれたような暮らしを送っている。
文字はなく、全てのことは口伝えで残されるというのに、ここの人たちの記憶はいつもすぐに消えてなくなってしまう。
何か大事なことを忘れているような気がする…。そんな思いも、いつしか忘れ…。

人々の物忘れの原因は、辺りに立ち込めている霧のせいではないか。
身のまわりも頭の中も、もやもやとしてつかみどころのない登場人物の視点で語られる物語は、やっぱりつかみどころがなくて、手さぐりで読み進めるしかない。
ただし、読み手のほうには記憶力が多少なりともあるので、余計に悩ましいともいえる。

忘れたり思い出したりを繰り返しながら、夫婦は遠く離れて暮らしている息子の元を訪ねていくことにする。
今と違って公共の乗り物どころか道すらも満足にないなかを、老夫婦は息子の元へと歩き続ける。

旅の途中で若い戦士や鬼に襲われた少年、そしてアーサー王の甥である老騎士と、出会ったり別れたりを繰り返しながら、彼らは伝説の雌竜の元へと集結する。
雌竜こそが、この霧の大元なのだから。

ストーリーにするとこんな感じ。
けれど文字になっているよりも多くのものごとがこの小説には含まれているようで、考えれば考えるほどに物語に捕らわれていくよう。

最初にアクセルとベアトリスが住んでいた村の様子を読んでいた頃は、アイヌの人達を思い浮かべてしまった。
荒涼とした土地。連なる丘。文字を持たず、共同生活のようにかたまって住む人たち。(でも、農業を営んでいましたね)
何よりも、先住民でありながら追いやられたようにひっそりと暮らす人々の姿が。

けれどもそれは、世界中のどこでも行われている光景なんだなあと、読み進めていくうちに気が付く。
アクセルとベアトリスと老騎士はブリトン人。若き戦士と少年はサクソン人。
本当は侵略する側とされる側で対立しているはずなのに、混じりあい、互いを尊重しながら暮らす人々。
それは善きことのはずだけれど。

“あなた方キリスト教徒の神は、自傷行為や祈りの一言二言で簡単に買収される神なのですか。放置されたままの不正義のことなど、どうでもいい神なのですか”

個人の記憶と、民族の情念。
今、日本に暮らしている日本人にはあまりピンとこない民族の情念が、現実社会ではいつも大きな諍いの種になる。

雌竜の放つ霧のように、詳細を見えないようにしたまま持ち続ける情念は恐ろしい。
だがしかし、全てをクリアにすることで問題は解決できるのか。却って重荷を背負うことになってしまうのではないか。

“これまでも習慣と不信がわたしたちを隔ててきた。昔ながらの不平不満と、土地や征服への新しい欲望―これを口達者な男たちが取り混ぜて語るようになったら、何が起こるかわからない”

常に寄り添って生きてきたアクセルとベアトリスが最後に選んだ道は、一体どう意味なのか?
考えた時に気づいてしまった。
アクセルの、戦士の、少年の、騎士の視点で語られたこの物語は、一度もベアトリスの視点に立っていなかったことを。

彼女は何を思い、何を考えて生きてきたのか。
時に子どものように頑固に、今という時間しか持たなかった彼女は、最後に記憶を取り戻すことができたのか。
それともどこかで記憶を取り戻していたのか。

アクセルとベアトリスの違いの大きさに、何か読み落としているようで不安なのである。


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