夏の文庫フェア3社が出そろったので、それぞれ何冊くらい読んでいるのか数えてみました。←そーゆーことをやっている間に少しでも読んだらどうだ?

各社ともおおむね100冊のラインナップ。
集英社だけが少し少ないですけども。

集英社文庫の既読6冊。
角川文庫の既読21冊。
新潮文庫の既読38冊。

集英社文庫だけがダントツで少ないです。
なんで?
ロングセラーが少ないんですね。最近の本が多い。
私は新刊をすぐに買って読むことがあまりないので、これでは既読本が少なくてもしょうがない。
若い人向けの本が多いのも、おばちゃんにはそそられない本が多くなってしまう。

社の個性というのがこういうところに出るのだと、今回初めて気が付きました。

春夏秋冬いつでも本を読みますからフェアも無関係と言っちゃあ無関係なんですが、やっぱり毎度読書欲をかきたてられますな。



本日の読書:塩狩峠 三浦綾子

カバー裏より
『結納のため札幌に向った鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた……。明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を描き、人間存在の意味を問う長編小説。』

あまりにも有名な実話をもとにした小説。
でもこれはあくまでも小説なのだ。

乗客を載せて暴走しはじめた列車を、身を挺して止めた人がいる。
その彼はキリスト教信者であった。

そこは事実であっても、そこに至る彼の半生は小説だ。
発表されたのは日本基督教団出版局から出ている月刊誌。
しかし、主人公の永野信夫は、少年の頃から敬虔なキリスト教徒だったとは書かれていない。

元士族であるというプライドを捨て去ることができない祖母に育てられた信夫。
母親は彼を生んですぐに亡くなったためだ。
士族は町民とは違う。かわいがってくれるとは言え厳格な祖母。
仕事が忙しく、あまりかまってくれない父。

ところが祖母が急死した後、母が生きていたことが判明。
それどころか妹まで生まれているという。
母が家にいられなかった理由は、母がキリスト教だから。

これが信夫には納得できない。
自分という子どもがあるというのに、母は宗教を捨てなかったのか。
母にとって自分は宗教以下の存在なのか。
母がやさしくいい人であればあるほど、母を恋うる気持ちが強くなればなるほど、その疑問は信夫の心の底に深く潜りながら無くなることはなかった。

友情、初恋などを経験しながらも、ずっと心に引っかかっているキリスト教への疑問。

祖母が亡くなり母が家に戻ってきてから、仏壇に仏様のごはんや線香が手向けられることがなくなった。
それは母の信仰の問題なのだという。

ここに私は引っかかった。
私は無信仰なので、たとえば誰か親しい人が「私が死んだあとは線香を切らさないで」と言えば線香を切らさないようにするだろう。
でも、強い信仰を持っている人が他宗教の行為をするというのは、どう頑張っても出来かねることなんだろうか。

自分と信仰。
そこに周囲の人の幸せというのは入る余地がないのだろうか。
自分の意志で現世の幸せを遠ざけることはまだしも、家族の願いも?

だけど、宗教に生きるってことはそういうことなのかもしれない。
信仰生活に妥協はしないという。

身を挺して列車を止めたという衝撃的な題材ではあるけれど、ある意味反射的行動なのでね。
熟慮の上この行為に及ぶことができたのなら、それは本当にすごいことではあるけれど、とっさについ飛び出すことは、あり得ないことではないような気も。
もちろんそれも、誰もができる行為ではないけれど。

そう。この小説のテーマは信仰ではなく、犠牲でした。
人のために犠牲になった自分と考えてしまいがちだけれど、自分一人の犠牲ですむならと考えられるかどうか。
うーん、だとしたら、自分一人が頑張っておばあさんにお線香を…というわけにはいかないのか。

私には難しいテーマでした。
でも、すごく良い小説。
簡単に「感動した!」と言ってはいけない気がして、いろいろ考えてしまいました。


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