1800年の今日、伊能忠敬が蝦夷地(今の北海道)の測量に出発したんだって。

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子どもの頃、世界地図のパズルを持っていました。
確か5枚組で、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、北アメリカ、南アメリカだったかと。

弟は日本地図。
北海道、東北、関東から近畿、中国四国、九州・・・だったかな?

今も持っているとしたら、世界地図が全然変わっていてビックリでしょうね。
ベルリンの壁が崩壊した年に生まれた長男は「東ドイツって何?」って小学生の時に聞きに来ましたもの。

私もアフリカやヨーロッパでここ20年くらいの間にできた国は、ほとんどわかりません。
場所も首都も。
世界は身近になったはずなのに、基本すらわからないことが多すぎる。

だから本を読むの。
だから映画を観るの。
直接体験できなくても、想像の翼が私を世界に連れてってくれるの。
私にとっての地図は本だったり映画だったりなの。

これは地図を読めない私の負け惜しみではないことよ。


本日の読書:イギリス人の患者 マイケル・オンダーチェ

カバー裏より
『舞台は第二次大戦下のイタリアの僧院。北アフリカの砂漠に不時着したパイロットが収容され、手当を受けている。(イギリス人の患者)としか身元を明かさない彼は、全身に火傷を負い、容貌も不明、記憶も喪失している。だが、瀕死の患者が若い看護婦に語り紡ぐ言葉は、この上なく深くミステリアスな愛の世界だ。美しい文章と濃密なストーリーで大きな話題を呼んだブッカー賞受賞作』

1945年、イタリアの僧院。
イタリアは降伏し、退却するドイツを進攻してきた連合軍が追う。
戦地は北上し、それにつれて医者や看護婦も北上していくのだが、一人の看護婦が僧院にとどまる。
瀕死のけが人がいるから、と。

けが人は全身を火傷に覆われ、イギリス人であることしか身元がわからない。
看護婦は廃墟になったその僧院で、患者の世話をしながら日を過ごす。

そこに一人の男が現れる。
看護婦ハナの父親の旧友。
泥棒の腕を見込まれ連合軍のスパイとして働いていた。
今は両手の親指を無くしたけが人。

イギリス人の患者は、身動きをとることすらできないけれども、話をすることは出来る。
博学な彼の話は、ハナやカラバッジョを楽しませ、また、ハナが読む物語はイギリス人の患者やカラバッジョを楽しませる。

さらに、地雷撤去のために訪れた工兵キップ。
インド人の彼は、イギリス兵として爆発物処理のエキスパートとなる。

ハナとキップ、若いふたりの恋。
キップがどこからか持ってくるワインを飲みながら、ラジオのから流れる音楽に合わせてのダンス。
痛み止めのモルヒネを打ちながら語りあうイギリス人の患者とカルバッジョ。

4人はそれぞれに戦争による傷を抱えていた。
身体や心に。
戦場は北に移動しているのに、動かない4人。
それは、傷が癒えるまでじっとその場にうずくまっている動物のように。

4人の日常。4人の過去。それに差し込まれてくる砂漠のイメージ。
静謐な物語。
日に焼けて茶色くなった、パリパリに乾いた紙に描かれた絵のような、簡単に壊れてしまいそうな4人の関係が、ただ静かに書かれている。

そんな小説かと思って読んでいた。
カズオ・イシグロの『日の名残り』のようだと。(カバーの折り返しを見たら、訳者が同じだった)

あとは日本が降伏したら、この戦争も終わるわね。

しかし、繭にくるまれていたかのような日々は突然終わりを告げる。
“一つの文明の死”
“これが白人の国だったら、決してそんな爆弾は落ちなかったろう”

突然の終わり?
最初から彼らの関係は終わりを含んではいなかったか?
彼らは終わりの気配に気づかないふりをしていただけではないのか?
そして読者の私も、進んで作者にだまされようとしていたのではないか?
シーンごとの美しさに見とれている時、足下に不確かさを感じてはいなかったか?

400ページ弱の小説に5日かけて、この世界をじっくりじっくり味わってきたつもりだったのに、最後の慟哭の激しさに全てがひっくりかえったような、でも最初から予感していたような。
なんというか…やられました。


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