最近、実家で父と話をすることが多くなりました。
以前は私が行っても「おう」と一言だけで自室に戻っていったのですが、最近は居間で母と私の会話に入ってきます。

最初の頃は孫たちの思い出話だったのね。
しかし何時間もいると、いい加減その話何回目?ってなことになり、最近私の子どもの頃の話をするようになりましたの。

そしたらうちの父、結構なイクメンでしたよ。そんな言葉もない時代に。

確かに私父と手をつないで歩いた思い出は結構ありますが、母と手をつないだ記憶はないなあ。
でも、弟がふたりいますから、私。
母は弟たちの面倒をみて、私は手がかからない長女として父預かりだったのかなあと、思っちょりました。

ところが私が3人の子育てに悪戦苦闘していたとき、母が言った言葉が引っ掛かります。

「あんた、ちゃんと子どもと遊んであげて、えらいねえ」
ねえ、私が小さいときは、お母さんと何して遊んでたの?
「私、子どもと遊ばなかったよ」
Σ(゚д゚;)

そういえば次男をベビーバスに入れていた時も
「あんた、よくそうやって赤ん坊をお風呂に入れられるねえ。えらいねえ」
いやいや、3人子どもを育てた人が何言いますか。
「だって、うちは3人ともお父さんが入れてたから」
Σ(・ω・ノ)ノ!

どうも母は子ども嫌いのようでありました。
自分の子どもは違うよ、と言っていましたけれど、嫌いではないが好きというほどでもなかったのかも。
もちろん、日常的な面倒は見てくれていましたよ。(風呂は除く)

この間初めて聞いたのは、幼稚園の入園試験に父が連れて行ってくれたということ。
幼稚園の入園試験があったこともびっくりでしたが、二園とも父が連れて行った、と。
父と私のふたりでお受験というのは、当時なかなかないことであった、と。(今もなさそうだが)

私たぶん父に「お父さん好き」なんて言ったことないと思うんですよね。
この先も言う気はないけど。
でもまあ、かわいがってもらっていたんだなということ、ありがたく思います。

イクメンという言葉のなかった頃、母が弟たちにかかりっきりになっていたであろう時、父が当たり前のように私の面倒をみてきてくれた。

うん、当たり前だね。
だって、夫婦二人で子育てしてるんだよ。(うちの場合はね)
言葉はあとからついてきたもので、江戸時代の武士だって、勤務時間外は自分の子どもの面倒くらい見たんだよ。
妻に丸投げなんてしてないんだよ。

父親として真っ当な父で、ありがとう。
面倒みてやったと、恩着せがましいことを一度も言わず、えらいぞ、父。
また昔話を聞かせておくれね。


本日の読書:日々の泡 ボリス・ヴィアン

カバー裏より
『愛を語り、友情を交わし、人生の夢を追う、三組の恋人たち―純情無垢のコランと彼の繊細な恋人のクロエ。愛するシックを魅了し狂わせる思想家の殺害をもくろむ情熱の女アリーズ。料理のアーティストのニコラと彼のキュートな恋人のイジス。人生の不条理への怒りと自由奔放な幻想を結晶させた永遠の青春小説。「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と評される最高傑作。』

読み始めと読み終わりでは全然印象が違う小説。

最初はシュールだなあ、なんて笑いながら読んでいた。
けれども、現実と非現実が絡み合い混じりあうように紡がれる文章が、どんどん笑えなくなってくる。
シュールというよりサイケデリック。

好き勝手に生きているように見えて、生きていくための手段を全くもたない登場人物たち。
奔放に生きるというよりも、緩やかに死んでいくかのように。
自覚のない自傷。
彼らが痛ましくてしょうがない。

自分を生かすことすらままならないクロエ。
クロエを支えたいのに、気持ちばかりでなんの力もないコラン。
ふたりの生は、どんどん小さく儚くなっている。

しかしそれよりも、シック。
彼は自分が破滅に向かっているのを知っていながら、自分の力では止められない。
だからアリーズから離れようとするのだが、それに対してアリーズの取った行動。
シックとアリーズの、気持ちのかけ違いが哀しい。
警察が踏み込んできたとき、シックの心の一部は解放されたんではないだろうか。

現実と非現実の入れ替わりが、よい意味で引っかかる。
咀嚼するのに時間のかかる文章だ。
そして、私が読んだこの本は、訳が古い。
それがまあ、いい意味で味になっている部分もあるのだけれど、やっぱりこれはちょっと古すぎるような気がするので、これから読もうと思っている人は早川書房や光文社古典新訳文庫で出ている新しい訳『うたかたの日々』の方で読んだ方がいいかもしれません。
新訳読んでないから断言はできないけど。

この本の訳の古さって、例えば
“電気オーヴンの指針は、七面鳥の焙り焼きにあわせてあり、『ほぼよろし』と『ちょうどよろし』とのあいだを揺れ動いているところだった。もうそろそろ取り出す時間だ。ニコラが緑色のボタンを押した。知覚接触子が始動して、ひっかかりもせずにすべりだすと、その瞬間に指針は『ちょうどよろし』に到達した。”
1970年って、こんな言葉使ってました?古すぎません?
知覚接触子って、センサーってことだよね。1970年にはない言葉だったのか。

ちなみにデューク・エリントンのレコードをかけるのは“電蓄”
古くない?
さすがにステレオとかレコードプレーヤーって言ってませんでしたか?

いろんな意味で面白かった。


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