何か書かなくちゃと思いつつ、日曜の夜から悶々とすごしていました。
そう。
「デスノート」
マンガも映画もドラマも、それぞれに違ったアプローチがあっていいはずだ。
それぞれに別な作品なのだから。
…と、いくら思ってもねえ、やっぱり衝撃でしたよ、あたくしには。
ごく普通の大学生の夜神月は、普通にアイドルを追っかけ、普通にアルバイトに励む毎日。
ただひとつ普通じゃないのは、彼は、デスノートを持っていたということです。
眉目秀麗、頭脳明晰、野心満々、過剰正義な夜神月が、どこから正義感を反転させてしまったのか。
膨らむ自意識がどれだけ彼を醜くしたのか。
そういう話では全くないのだな。
ごく普通の人間が、本来手にすることのできないはずの力に振りまわされ…振り回され…振り回されて、どうなるんだろう?
あんなに初回から追いつめられた感満載では、最終回まで持たないのでは?
マキメスト後輩は、「ライト途中で死んじゃうんじゃないですか?」なんて言ってましたよ。
そうね。
じつはライトは傀儡で、ミサミサの方が裏で操っているとかね。
全然違う話にしちゃっていいですよ。もう。
ただね、これは絶対やめてほしかったのが、Lの座り方。
松山ケンイチのL。
これを越えることはまず無理なので(あの、句点を使わない読点だけのしゃべり方は、L以外の何者でもない)、比較するつもりはないのですが。
Lは、人前に顔を出さない、本名を明かさない人なのです。
徹底して自分を見せない。隠して生きているのです。
本当のLを心の中に抱え込みながら、Lとして生きているのです。
だからこその、あの座り方だと思います。
ふんぞり返って足を投げ出すなんて、Lじゃない!
化粧してもいいけど、オネエになってもいいけど(嫌だけど)、あの座り方はいかん。
って思っているので、第2話以降はどうしようかなあ。
とりあえず「ど根性ガエル」を見てから考えようか。
本日の読書:アウステルリッツ ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト
Amazonより
『ガラスの檻に囲われ、薄暗い灯りのしたで倦むことなく一切れの林檎を洗いつづける洗い熊…。冒頭まもなく描かれる神経症的なその動物のように、憑かれたようにみずからの過去を探しつづける男がいる。全米批評家協会賞受賞作品。 』
人間らしい温かみのない養家で育った少年ダヴィーズ・イライアス。大学進学前に養父母が亡くなり、校長先生から伝えられたのが本当の名前、ジャック・アウステルリッツ。
建築史の研究者となったアウステルリッツは、ヨーロッパ各地を研究のために訪れる。
しかし…。
ずっと気づかなかった振りをしていた、気づいてはいけないと思っていた自分の過去。
アウステルリッツという名前が持つ隠された意味とは。
壮年となり、ようやく自分の過去と向かい合う覚悟ができたアウステルリッツ。
ダヴィーズ・イライアスとしてイギリスのウェールズ地方の田舎で過ごす以前の自分はどこから来たのか。なぜそこに来ることになったのか。
薄々想像できるそれを、考えないようにしてきた自分を責めるアウステルリッツ。
ドイツの厳しさだなあと思う。
ナチスがやった事を忘れない。忘れてはいけない。
その姿勢を生真面目に貫き続ける。
場所を変え、時間を越えて、アウステルリッツは、自分の過去への旅を私に語り続ける。
アントワープで、ロンドンで、プラハで、テレージエンシュタットで、マリーエンバートで、ニュルンベルクで、そしてパリで。
ほぼひとつながりの文章。
本を開くと文字がみっしりと書き込まれていて、改行がない。
なめらかに語られる文章はとても美しいが、その心地よさに流されていると、いつの間にか場面が変わっていて、話に置いてきぼりにされてしまうこともしばしば。
慌てて読みなおそうにも、改行のない文章のどこまで戻ればよいのか。
そんな行きつ戻りつの読書であったが、駅舎や要塞、病院や監獄や図書館などの建物についての描写、該博な知識を越えて立ち昇ってくる都市の気配などに圧倒される。
気配のその向こうに、歴史に消えてしまった町の佇まいが透けて見えるのだ。
そして少年時代のアウステルリッツを知っていた、ヴェラとの再会。
急激に時が遡るように、次々に思い出される子供時代の思い出。
何十年も思い出さなかったのに、知っているということすら知らなかった事柄がするするとこぼれ出てくる。
ユダヤ人である彼は、彼の両親は、子どもだけでも助かるように彼を国外へ送り出したのだ。
棄てられたわけではなかった。愛されていた。
本当の自分。本来あるべき自分。失われた過去。喪失の大きさ。
どう言葉にしたらいいのかわからない。
読書というよりは映画を観ているような感じでした。
ゼーバルトの作品は、写真がさし絵のように使われていて、それが一層映画のようでした。
そう。
「デスノート」
マンガも映画もドラマも、それぞれに違ったアプローチがあっていいはずだ。
それぞれに別な作品なのだから。
…と、いくら思ってもねえ、やっぱり衝撃でしたよ、あたくしには。
ごく普通の大学生の夜神月は、普通にアイドルを追っかけ、普通にアルバイトに励む毎日。
ただひとつ普通じゃないのは、彼は、デスノートを持っていたということです。
眉目秀麗、頭脳明晰、野心満々、過剰正義な夜神月が、どこから正義感を反転させてしまったのか。
膨らむ自意識がどれだけ彼を醜くしたのか。
そういう話では全くないのだな。
ごく普通の人間が、本来手にすることのできないはずの力に振りまわされ…振り回され…振り回されて、どうなるんだろう?
あんなに初回から追いつめられた感満載では、最終回まで持たないのでは?
マキメスト後輩は、「ライト途中で死んじゃうんじゃないですか?」なんて言ってましたよ。
そうね。
じつはライトは傀儡で、ミサミサの方が裏で操っているとかね。
全然違う話にしちゃっていいですよ。もう。
ただね、これは絶対やめてほしかったのが、Lの座り方。
松山ケンイチのL。
これを越えることはまず無理なので(あの、句点を使わない読点だけのしゃべり方は、L以外の何者でもない)、比較するつもりはないのですが。
Lは、人前に顔を出さない、本名を明かさない人なのです。
徹底して自分を見せない。隠して生きているのです。
本当のLを心の中に抱え込みながら、Lとして生きているのです。
だからこその、あの座り方だと思います。
ふんぞり返って足を投げ出すなんて、Lじゃない!
化粧してもいいけど、オネエになってもいいけど(嫌だけど)、あの座り方はいかん。
って思っているので、第2話以降はどうしようかなあ。
とりあえず「ど根性ガエル」を見てから考えようか。
本日の読書:アウステルリッツ ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト
Amazonより
『ガラスの檻に囲われ、薄暗い灯りのしたで倦むことなく一切れの林檎を洗いつづける洗い熊…。冒頭まもなく描かれる神経症的なその動物のように、憑かれたようにみずからの過去を探しつづける男がいる。全米批評家協会賞受賞作品。 』
人間らしい温かみのない養家で育った少年ダヴィーズ・イライアス。大学進学前に養父母が亡くなり、校長先生から伝えられたのが本当の名前、ジャック・アウステルリッツ。
建築史の研究者となったアウステルリッツは、ヨーロッパ各地を研究のために訪れる。
しかし…。
ずっと気づかなかった振りをしていた、気づいてはいけないと思っていた自分の過去。
アウステルリッツという名前が持つ隠された意味とは。
壮年となり、ようやく自分の過去と向かい合う覚悟ができたアウステルリッツ。
ダヴィーズ・イライアスとしてイギリスのウェールズ地方の田舎で過ごす以前の自分はどこから来たのか。なぜそこに来ることになったのか。
薄々想像できるそれを、考えないようにしてきた自分を責めるアウステルリッツ。
ドイツの厳しさだなあと思う。
ナチスがやった事を忘れない。忘れてはいけない。
その姿勢を生真面目に貫き続ける。
場所を変え、時間を越えて、アウステルリッツは、自分の過去への旅を私に語り続ける。
アントワープで、ロンドンで、プラハで、テレージエンシュタットで、マリーエンバートで、ニュルンベルクで、そしてパリで。
ほぼひとつながりの文章。
本を開くと文字がみっしりと書き込まれていて、改行がない。
なめらかに語られる文章はとても美しいが、その心地よさに流されていると、いつの間にか場面が変わっていて、話に置いてきぼりにされてしまうこともしばしば。
慌てて読みなおそうにも、改行のない文章のどこまで戻ればよいのか。
そんな行きつ戻りつの読書であったが、駅舎や要塞、病院や監獄や図書館などの建物についての描写、該博な知識を越えて立ち昇ってくる都市の気配などに圧倒される。
気配のその向こうに、歴史に消えてしまった町の佇まいが透けて見えるのだ。
そして少年時代のアウステルリッツを知っていた、ヴェラとの再会。
急激に時が遡るように、次々に思い出される子供時代の思い出。
何十年も思い出さなかったのに、知っているということすら知らなかった事柄がするするとこぼれ出てくる。
ユダヤ人である彼は、彼の両親は、子どもだけでも助かるように彼を国外へ送り出したのだ。
棄てられたわけではなかった。愛されていた。
本当の自分。本来あるべき自分。失われた過去。喪失の大きさ。
どう言葉にしたらいいのかわからない。
読書というよりは映画を観ているような感じでした。
ゼーバルトの作品は、写真がさし絵のように使われていて、それが一層映画のようでした。