1泊2日の強行軍。
目的は次男のお出迎えという、なんとなく理不尽で楽しい旅を終え、今日はゆっくりしたと思うでしょう?
今日も出かけてきましたよ。
それはまた後日お話しするとして。するかな?しないかも。
あ、サッカー観てきたんですの。
コンサドーレvsジュビロ戦。
ジュビロファンの次男の意向で、ジュビロ側で応援していたのですが、3対0でコンサドーレが買っちゃったので、微妙な感じで帰ってきました。
今日はヤケ酒か!と思ったら、食事もそこそこふて寝です。
で、昨日の続き。
「嵐の木」を見た後、東に進路を変え(おいおい、家から遠ざかってるぞ)、美瑛町にある「青い池」を見てきました。
正直青というより緑に見えましたが、これは季節によっても違うのかもしれません。
太陽の高さとかね。
駐車場から歩いて最初に見えた池は、あまりきれいな色をしていなかったのですが、歩くほどに色が深くなり、きれいな深緑色になりました。

池の手前の方からもう、水に色がついています。
アルミニウムを含んだ水が、コロイドというものを生成し、太陽光を反射してこうなるのですって。
決して温泉の素ではありません。

写真はソフトクリームを食べに立ち寄ったお店にあった、石炭ザンギ。
真っ黒で味が濃いように見えますが、とてもジューシーでおいしかったです。
炭鉱町だった三笠市にあった逸品。

三笠市は恐竜の町でもあるので、マンホールの蓋はこんな感じ。

暖かい一日でしたが、ソフトクリームを食べるとさすがに寒くなってきました。
そろそろお家に帰りましょう。
本日の読書:完全な遊戯 石原慎太郎
カバー裏より
『「太陽の季節」で既成文壇に敢然と挑戦した著者の、同時期の傑作を集めた短編集。不良少年たちが、精神を病む女を弄び、海に突き落とすまでの無軌道ぶりを描く表題作。賭場での若い女の豪胆な賭け方に魅せられた男が語る「乾いた花」。鱶の化身のような女と少年の交流を幻想的に描いた「鱶女」など5編。他に弟・裕次郎の出世作となった映画「狂った果実」の原作を特別収録する。』
言葉は生きものなので、時代によって使われる言葉が全然違っていたりします。
いくら時代が変わっても、不変であるものを書いている小説もありますが、時代を切り取って、その瞬間を描いている作品は、時代にあった言葉を使わないと伝わらないものがあるのだと思います。
思いますが、とても厳しいときがあります。
例えば森鴎外などは、そろそろ現役の日本語から古典の日本語へとポジションを移してきています。
それはしょうがないことだなあと思います。
何しろ昔の人ですからね。
けれど、石原慎太郎は、今も存命の、現役の政治家の、同時代人です。
それが、こんなに日本語として違和感があるとは。
帰って宮沢賢治や太宰治の方が読みやすいくらいです。
「貴女(あなた)と会ったのは二度目ですよ」
「あら、前に何処で」
「なあおい。弟がね、電車の中で貴女を見つけたのだ。見初めたのかな」
「よせやい。やだな」
「あら」
なあおい。よせやい。
使いませんな、昨今は。
“奴を倒したのあ”とか“奴あ口が軽いぜ”とかの“あ”の使い方。
ヒリピンの選手。(フィリピン)
当時は本当にこんな言葉を使っていたのでしょうか?
使っていたのでしょうね。
お金に不自由することなく、楽しければとりあえず倫理観などとも無縁な、刹那的な生き方をする若者たちを書いています。
彼らを善とも悪とも断ずることなく、そのように生きるしかない乾いた空虚さなども書かれてはいるのですが、兄弟が出てくると必ず弟の純真無垢な部分が善となっているところをみると、弟・石原裕次郎に対する思いとか、粋がってはいるけれど何か満たされていない自分とかを書いているようにも思えます。
はっきり言って表題作は好きではありませんし、賭け事の描写に至っては全然理解もできませんでしたが、2点だけ。
世界観はよくわからないなりに、「ファンキー・ジャンプ」の言葉の勢いはすごいと思います。
自分の理想とする完璧な音楽を表現するために、ヘロインを打ち、体がボロボロになりながらもピアノを弾き続ける主人公の脳内からあふれ出ることば、リズム。
これには圧倒されました。
そして「鱶女」
だいたい先は読めるのですが、そして思った通りにストーリーは展開しますが、それでもこの作品は好きですね。
その時々に見せる表情を変える海。
海から現れたかのような謎の女。
謎の女ではあるけれど、まっすぐで健康的な彼女と、どこか歪んだような主人公の兄。そして村の男たち。
読んでいてわくわくしました。
わが人生の中で、石原慎太郎をほめることがあるとは思わなかった…。
だから読書は面白い。
目的は次男のお出迎えという、なんとなく理不尽で楽しい旅を終え、今日はゆっくりしたと思うでしょう?
今日も出かけてきましたよ。
それはまた後日お話しするとして。するかな?しないかも。
あ、サッカー観てきたんですの。
コンサドーレvsジュビロ戦。
ジュビロファンの次男の意向で、ジュビロ側で応援していたのですが、3対0でコンサドーレが買っちゃったので、微妙な感じで帰ってきました。
今日はヤケ酒か!と思ったら、食事もそこそこふて寝です。
で、昨日の続き。
「嵐の木」を見た後、東に進路を変え(おいおい、家から遠ざかってるぞ)、美瑛町にある「青い池」を見てきました。
正直青というより緑に見えましたが、これは季節によっても違うのかもしれません。
太陽の高さとかね。
駐車場から歩いて最初に見えた池は、あまりきれいな色をしていなかったのですが、歩くほどに色が深くなり、きれいな深緑色になりました。

池の手前の方からもう、水に色がついています。
アルミニウムを含んだ水が、コロイドというものを生成し、太陽光を反射してこうなるのですって。
決して温泉の素ではありません。

写真はソフトクリームを食べに立ち寄ったお店にあった、石炭ザンギ。
真っ黒で味が濃いように見えますが、とてもジューシーでおいしかったです。
炭鉱町だった三笠市にあった逸品。

三笠市は恐竜の町でもあるので、マンホールの蓋はこんな感じ。

暖かい一日でしたが、ソフトクリームを食べるとさすがに寒くなってきました。
そろそろお家に帰りましょう。
本日の読書:完全な遊戯 石原慎太郎
カバー裏より
『「太陽の季節」で既成文壇に敢然と挑戦した著者の、同時期の傑作を集めた短編集。不良少年たちが、精神を病む女を弄び、海に突き落とすまでの無軌道ぶりを描く表題作。賭場での若い女の豪胆な賭け方に魅せられた男が語る「乾いた花」。鱶の化身のような女と少年の交流を幻想的に描いた「鱶女」など5編。他に弟・裕次郎の出世作となった映画「狂った果実」の原作を特別収録する。』
言葉は生きものなので、時代によって使われる言葉が全然違っていたりします。
いくら時代が変わっても、不変であるものを書いている小説もありますが、時代を切り取って、その瞬間を描いている作品は、時代にあった言葉を使わないと伝わらないものがあるのだと思います。
思いますが、とても厳しいときがあります。
例えば森鴎外などは、そろそろ現役の日本語から古典の日本語へとポジションを移してきています。
それはしょうがないことだなあと思います。
何しろ昔の人ですからね。
けれど、石原慎太郎は、今も存命の、現役の政治家の、同時代人です。
それが、こんなに日本語として違和感があるとは。
帰って宮沢賢治や太宰治の方が読みやすいくらいです。
「貴女(あなた)と会ったのは二度目ですよ」
「あら、前に何処で」
「なあおい。弟がね、電車の中で貴女を見つけたのだ。見初めたのかな」
「よせやい。やだな」
「あら」
なあおい。よせやい。
使いませんな、昨今は。
“奴を倒したのあ”とか“奴あ口が軽いぜ”とかの“あ”の使い方。
ヒリピンの選手。(フィリピン)
当時は本当にこんな言葉を使っていたのでしょうか?
使っていたのでしょうね。
お金に不自由することなく、楽しければとりあえず倫理観などとも無縁な、刹那的な生き方をする若者たちを書いています。
彼らを善とも悪とも断ずることなく、そのように生きるしかない乾いた空虚さなども書かれてはいるのですが、兄弟が出てくると必ず弟の純真無垢な部分が善となっているところをみると、弟・石原裕次郎に対する思いとか、粋がってはいるけれど何か満たされていない自分とかを書いているようにも思えます。
はっきり言って表題作は好きではありませんし、賭け事の描写に至っては全然理解もできませんでしたが、2点だけ。
世界観はよくわからないなりに、「ファンキー・ジャンプ」の言葉の勢いはすごいと思います。
自分の理想とする完璧な音楽を表現するために、ヘロインを打ち、体がボロボロになりながらもピアノを弾き続ける主人公の脳内からあふれ出ることば、リズム。
これには圧倒されました。
そして「鱶女」
だいたい先は読めるのですが、そして思った通りにストーリーは展開しますが、それでもこの作品は好きですね。
その時々に見せる表情を変える海。
海から現れたかのような謎の女。
謎の女ではあるけれど、まっすぐで健康的な彼女と、どこか歪んだような主人公の兄。そして村の男たち。
読んでいてわくわくしました。
わが人生の中で、石原慎太郎をほめることがあるとは思わなかった…。
だから読書は面白い。