選挙運動もますます活発になってきました今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今日、家に帰って郵便受けをみたら、10年以上連絡をとりあったこともない、ただの知り合いから「○○さんに一票よろしく」のハガキが入っていて、決戦は日曜日の感を強くしたものです。
いや、堅苦しいな。
でもまあ、今日はちょっと真面目に。
選挙というと、一票の格差が問題になります。違憲です、って。
確かにひとりひとりの命の重さに違いがないように、ひとりひとりの一票だって同じ重さでなければなりません。それはそうなんです。
でも、都会の人の意見なんて、結局多数決になると通りやすいじゃないですか。
地方の、人口の少ないところの人たちの要望は、ともすると無視されがちなんだから、少し声が通りやすいように拡声器を使ってもいいんじゃない?って最近思うようになりました。
最近。具体的に言うと、前回の都知事選です。
事故を起こした原発は福島にありましたが、あれは東電の施設です。
あそこで作られた電気は、東京をはじめとした関東の人たちが使っていたものです。
なのに知事選の争点として、原発は関係ないと多くの人がアンケートに答えたんですよね。
そりゃあ、ないよ。
恩恵は受けるけど、問題が起きたら自分とは無関係。
「だって、自分たちで誘致したんじゃないの?」
東京みたいに、頼まなくても企業がぼこぼこ会社を作り、潤沢に法人税が入ってくるところはいいよ。
ほかに自治体が収入を得る道がないから、苦肉の策なんじゃないか。
好き好んで誘致しとるというのなら、街中に原発や、廃棄物処理場や、軍事基地があるはずでしょ。
みんな、そんなの眼の前にあると嫌だから、それが都会の人たちの意見だから、地方に置かれるんじゃないか。
なのに、関係ないよっていうのなら、「関係あるよ!!」って声を、地方にだって人は住んでいるし、地方にだって意見も都合もあるんだよって、都会の人にわかってもらうために、ちょっとハンデをつけたっていいんじゃないかって思います。
本当は、一票の格差なんてないのがいいに決まっている。
でもそれには、多数派の人たちが少数派の人たちの存在を尊重し、思いやることができるというのが前提じゃないですか?
それが民主主義ってことでしょ?
それができないうちは、補助輪代わりの格差、仕方ないんじゃないの。
難しい問題だけど、そういうの考えるのもオトナの義務だからね。
18歳まで選挙権を下げるとかいう前に、今のオトナが真剣に考えていかなきゃならないことはたくさんあるよね。
若者に責任転嫁しちゃあ、いかん。
本日の読書:ウェブログの心理学 山下清美/川浦康至/川上善郎/三浦麻子
Amazonより
『社会心理学から分析するネット・コミュニケーションの最新形。なぜブログは書かれ、読まれるのか。』
社会心理学から分析するネット・コミュニケーションの最新形っつったって、いつも通り10年前の本です。
第一章 インターネット時代のコミュニケーション
第二章 コミュニティに見るウェブログの歴史
第三章 ウェブログの社会心理学
第四章 ウェブログの現在と未来
終章 ウェブログ・個人・社会
このうちキモになるのは第三章と思われますが、この章30ページほどしかありません。
付箋を貼ったのは一か所。
“対人関係が形成される条件として「類似性」(類は友を呼ぶ)は強力な要因となっている。ウェブ日記は類似した他者の発見を容易にした。”
むーん。心理学というにはあまりに浅い。
コンピュータ・ネットワークから始まるインターネットの歴史についての記述に多くを割かれ、第三章でようやくウェブ上で日記を公開している人へのアンケートの分析が記されます。
私としては、そこからもう一段踏み込んだ解釈、アンケートよりも奥にある心理などを分析してほしかったところです。
そもそもウェブログという言葉。
第二章までは、ウェブ上のログを総じてウェブログとしています。
第三章ではブログも含めたウェブ日記、第四章ではブログのことが書かれていますが、やはりこれもウェブログ。
これではわかりにくいです。
当初は3人で出版するはずだったこの企画が一度頓挫した後、三浦麻子を含めた4人で出版することになったそうです。
第四章がその、実際にブロガーである三浦麻子が自身のブログも参照しながら考察した部分。
この章だけ書かれた時期が違うのではないかと思います。
だからどうも同じ言葉を使いながら統一感がないように感じるのではないかと。
思いのほかブログの普及ペースが早くて、ウェブログの分析だけでは本にならなかったんでしょうか。
どちらにしても、あまり深みのある本ではなかったのが残念です。
“ふだんは読むだけの人であっても、発言したいとか反論したいときには、書き手と同じ立場で発言ができる。そのような相互作用を内包しているのが掲示板システムなのである。”
“インターネット上にあるメッセージは、これまでの印刷メディアが用意するメッセージとは全然違っていて、著者の意図と無関係に読まれるのがふつうなのである。自分のページの一部が、読み手の文脈のなかで利用されるのである。書物のもっていた著者性ということがインターネットでは崩壊し、読み手であるわれわれが自分なりのテキストをつむぎだしているのである。”
“ウェブログは、持続性のある個人としての存在を記録する場である。同じ名前で継続してサイトに記録を積み重ねていく行為は、その人の人となりや人としての存在感を生みだす。じつはウェブログのもつ情報の信頼性の根本は、この継続性にあるといってよいだろう。”
今日、家に帰って郵便受けをみたら、10年以上連絡をとりあったこともない、ただの知り合いから「○○さんに一票よろしく」のハガキが入っていて、決戦は日曜日の感を強くしたものです。
いや、堅苦しいな。
でもまあ、今日はちょっと真面目に。
選挙というと、一票の格差が問題になります。違憲です、って。
確かにひとりひとりの命の重さに違いがないように、ひとりひとりの一票だって同じ重さでなければなりません。それはそうなんです。
でも、都会の人の意見なんて、結局多数決になると通りやすいじゃないですか。
地方の、人口の少ないところの人たちの要望は、ともすると無視されがちなんだから、少し声が通りやすいように拡声器を使ってもいいんじゃない?って最近思うようになりました。
最近。具体的に言うと、前回の都知事選です。
事故を起こした原発は福島にありましたが、あれは東電の施設です。
あそこで作られた電気は、東京をはじめとした関東の人たちが使っていたものです。
なのに知事選の争点として、原発は関係ないと多くの人がアンケートに答えたんですよね。
そりゃあ、ないよ。
恩恵は受けるけど、問題が起きたら自分とは無関係。
「だって、自分たちで誘致したんじゃないの?」
東京みたいに、頼まなくても企業がぼこぼこ会社を作り、潤沢に法人税が入ってくるところはいいよ。
ほかに自治体が収入を得る道がないから、苦肉の策なんじゃないか。
好き好んで誘致しとるというのなら、街中に原発や、廃棄物処理場や、軍事基地があるはずでしょ。
みんな、そんなの眼の前にあると嫌だから、それが都会の人たちの意見だから、地方に置かれるんじゃないか。
なのに、関係ないよっていうのなら、「関係あるよ!!」って声を、地方にだって人は住んでいるし、地方にだって意見も都合もあるんだよって、都会の人にわかってもらうために、ちょっとハンデをつけたっていいんじゃないかって思います。
本当は、一票の格差なんてないのがいいに決まっている。
でもそれには、多数派の人たちが少数派の人たちの存在を尊重し、思いやることができるというのが前提じゃないですか?
それが民主主義ってことでしょ?
それができないうちは、補助輪代わりの格差、仕方ないんじゃないの。
難しい問題だけど、そういうの考えるのもオトナの義務だからね。
18歳まで選挙権を下げるとかいう前に、今のオトナが真剣に考えていかなきゃならないことはたくさんあるよね。
若者に責任転嫁しちゃあ、いかん。
本日の読書:ウェブログの心理学 山下清美/川浦康至/川上善郎/三浦麻子
Amazonより
『社会心理学から分析するネット・コミュニケーションの最新形。なぜブログは書かれ、読まれるのか。』
社会心理学から分析するネット・コミュニケーションの最新形っつったって、いつも通り10年前の本です。
第一章 インターネット時代のコミュニケーション
第二章 コミュニティに見るウェブログの歴史
第三章 ウェブログの社会心理学
第四章 ウェブログの現在と未来
終章 ウェブログ・個人・社会
このうちキモになるのは第三章と思われますが、この章30ページほどしかありません。
付箋を貼ったのは一か所。
“対人関係が形成される条件として「類似性」(類は友を呼ぶ)は強力な要因となっている。ウェブ日記は類似した他者の発見を容易にした。”
むーん。心理学というにはあまりに浅い。
コンピュータ・ネットワークから始まるインターネットの歴史についての記述に多くを割かれ、第三章でようやくウェブ上で日記を公開している人へのアンケートの分析が記されます。
私としては、そこからもう一段踏み込んだ解釈、アンケートよりも奥にある心理などを分析してほしかったところです。
そもそもウェブログという言葉。
第二章までは、ウェブ上のログを総じてウェブログとしています。
第三章ではブログも含めたウェブ日記、第四章ではブログのことが書かれていますが、やはりこれもウェブログ。
これではわかりにくいです。
当初は3人で出版するはずだったこの企画が一度頓挫した後、三浦麻子を含めた4人で出版することになったそうです。
第四章がその、実際にブロガーである三浦麻子が自身のブログも参照しながら考察した部分。
この章だけ書かれた時期が違うのではないかと思います。
だからどうも同じ言葉を使いながら統一感がないように感じるのではないかと。
思いのほかブログの普及ペースが早くて、ウェブログの分析だけでは本にならなかったんでしょうか。
どちらにしても、あまり深みのある本ではなかったのが残念です。
“ふだんは読むだけの人であっても、発言したいとか反論したいときには、書き手と同じ立場で発言ができる。そのような相互作用を内包しているのが掲示板システムなのである。”
“インターネット上にあるメッセージは、これまでの印刷メディアが用意するメッセージとは全然違っていて、著者の意図と無関係に読まれるのがふつうなのである。自分のページの一部が、読み手の文脈のなかで利用されるのである。書物のもっていた著者性ということがインターネットでは崩壊し、読み手であるわれわれが自分なりのテキストをつむぎだしているのである。”
“ウェブログは、持続性のある個人としての存在を記録する場である。同じ名前で継続してサイトに記録を積み重ねていく行為は、その人の人となりや人としての存在感を生みだす。じつはウェブログのもつ情報の信頼性の根本は、この継続性にあるといってよいだろう。”