昨日は職場の飲み会でした。
週末の疲れも残っているので、一次会でさっくりと解散。駅へ向かって歩いていました。
女性陣はとうに解散していたのですが、酔っぱらってもたもたしている人の相手をしていたら遅くなってしまったの。
思えばそれが、なにかの先触れだったのかもしれない…。

駅へ向かって歩いていたら、駅方面から歩いてくる同僚に遭遇。
あれ?なんでそっちから来るの?
「マッピーさんこそ、次行きますよ」
あ、私はこれで失礼するところなので…。
「だって同期さんに会ったらどうせ連行されるんでしょ。おんなじおんなじ。ほら」
いえいえ。会ってないし。置いてきたし。今日は帰りますよ。

「え~。みんなはどこ?」
その辺にいますよ。
「いないよ~。みんなどこ~?」
2~3分前くらいまでここにいましたから、その辺にいるんじゃないですか?
「そうすると、まだ遠くへは行ってないな。よし、こっちだ!」←君は刑事だったのか?

交差点で探してみても、誰もいない。おかしいな。本当にさっきまでここにみんないたのに。
同期に電話をしてみる。
「おかけになった電話番号は、ただ今使われておりません。」
なんだとっ!?

「じゃあ、僕がかけます」と同僚が電話しているうちにフェードアウトしようとそろそろ後じさり。
「はい」なぜだか携帯を渡される。
てっきり私の同期にかけたのだと思って、気の抜けた声でもしもしというと「もしもし?」と聞き覚えのない声。
!!!

誰?誰なの!?
「あ、その声。マッピーさんですね。今『味百仙』という店にいるんですが、わかりますか?」
わかります。すぐそばですね…って振り向いたら、今あなたの背中を現認しました。

「美味しんぼ」でも紹介されたことのある『味百仙』というお店でみんな飲んでいたのだそうです。(一次会の隣のビル)
同僚をお届けして帰ろうと思ったのですが、がっちり捕まってしまいました。
追い込み漁にやられた感じ。退路を断たれました。(T_T)

で、「水曜どうでしょう」が大好きという後輩の隣でずーーーっとマンガやアニメの話をしてたんですよ。約2時間。
ガンダムにはじまり、デスノートやバクマン、ヒカルの碁、ブラックジャックにルパン3世、そしてワンピース、ワンピース、ワンピース!!
再びガンダム!ガンダム!!ガンダム!!!

楽しかった~。
これがリア充ってことなのね~。にこにこ。

さっそく今日後輩が、「鋼の錬金術師」を10冊貸してくれました。
う~わ~!楽しい~!!
仕事が忙しくても、うきうきルンルン、にこにこにこ。
リア充って素敵。

帰りの電車の中でつらつら思う。
私的にはリアルな生活が充実していて楽しいのだけれど、傍から見たらリア充と真逆な方にベクトルが向いている可能性が高い。
リア充をアピールするべきか、せざるべきか。それが問題だ。

ま、問題は棚上げにして、これから「鋼錬(はがれん)」読みます。
ヽ(^。^)ノ


本日の読書:翻訳夜話 村上春樹 柴田元幸

カバー折り返しより
『roll one's eyesは「目をクリクリさせる」か?意訳か逐語訳か、「僕」と「私」はどうちがう?翻訳が好きで仕方がないふたりが思いきり語り明かした一冊。「翻訳者にとっていちばんだいじなのは偏見のある愛情」と村上。「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と柴田。村上が翻訳と創作の秘密の関係を明かせば、柴田は、その「翻訳的自我」をちらりとのぞかせて、作家と研究者の、言葉をめぐる冒険はつづきます。村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳した「競訳」を併録。』

一部は東大の学生の前で、二部は翻訳の専門学校生の前で、そして三部は中堅の翻訳家・研究者の前で二人が翻訳に着いて語ったことが収録されている。

言葉を訳す。文章を訳す。雰囲気、世界観を訳す。
どう訳すかの選択から翻訳がはじまるのだと思った。

村上春樹と柴田元幸がそれぞれに、カーヴァーとオースターの短編小説を訳し、そのちがいを読み比べる第三部が面白かった。
本来村上春樹が訳しているはずのカーヴァーの作品でさえ、私には柴田訳の方が読みやすかった。

もともと村上春樹は英文で書かれた小説を読んで自分の文体を作ってきたのだそうだ。
だから彼の小説は、脳内では英文で構成されているものを、書くことによって日本語として自然なものに翻訳されているようなものなのだろう。
思考の枠組みが英語的で、文章が極めて日本的。
これが村上春樹の文章なのだということが、ここにきて理解できた。
計算して計算して、頭で書かれた文章なのである。

対して柴田元幸は、この時主人公はどのように思ったのか?など、登場人物や作者に思いを寄せることによって、心の中から湧いて出てくる文体らしいのだ。
もしかして、北島マヤ?
じゃあ、村上春樹が亜弓さん?

村上春樹は文体とはリズムだと言っているが、そのリズムとは音ではなく、文章を読んだときの、目のリズムなのだそうで、訳した文章のリズムを確認するために音読することはないらしい。
柴田元幸は、口を動かし手を動かしながら、文章のリズムを作っていくというのだから、翻訳の仕方などは人それぞれなのだ。
正しい翻訳の仕方なんてない。誤訳はあるが。

いくら美しい日本語だといっても、普段使っていない身についていない日本語なら使わない方がいいと二人は言う。
確かに読んでいても、言葉が浮いているな~と思うことがある。
そういうことだったのか。

翻訳の賞味期限について。
同時代性を表現するのに流行りの言葉を使うと、すぐに言葉が色あせていくことになる。
逆に当時は一般的ではなかったので敢えて訳語を使用したところ、今では直訳の方が伝わることもある。
フランス旅行団→ツール・ド・フランス
新しいバランスのスニーカー→ニューバランスのスニーカー

読む方はあっさりと読み流してしまうようなことを、実にいろいろ考えながら訳してくれていることがわかり、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも、よい作品をたくさん日本語に訳してください。