今日は職場のVDT健診でした。
VDT健診=主にパソコンを使っている人(職場の全員)のための眼科や整形外科中心の健康診断。
普通の視力検査のほかに、近いところを見る検査、眼球が左右によく動くかの検査、前後に動くものに焦点を当てられるかの検査、立体的に浮かび上がっている絵を見分けられるかの検査など。

同僚は絵が立体的に見えなかったようです。
片方の目だけがひどい乱視なんですって。
「でも、実生活に支障がないので、いいことにします。」
支障ないかなぁ。何かあると思うんだけど…。
たとえば動いているハエを箸で捕まえる時に、距離感がわからないと困りますね。
「それ、たとえ距離感がわかっても、運動能力的に無理です。」

あ、ああ、じゃあ、USJで、スパイダーマンを見るとき、面白さ半減ですよ。
「その時は新しいコンタクトをしていきます。
というか、それ、面白いんですか?」
めっちゃ面白いです。
っていうか、距離感つかめなくても、あまり生活に支障ないですね。
「いえ。買い物した時のお金の受け渡しが、結構失敗します。」

支障あるやないか~い!


本日の読書:落花流水 山本文緒

カバー裏より
『甘ったれでわがままな7歳の少女、手毬。家族に愛され、平穏な日々をおくるはずだったのに……。17歳、かつては姉だった人を母親と呼ぶ二人だけの暮らし。27歳で掴んだ結婚という名の幸せ。その家庭を捨て幼なじみと駆け落ちした37歳。そして……。複雑に絡みもつれる家庭の絆、愛と憎しみ。運命に流されるひとりの女性の歳月を、半世紀にわたって描く連作長編小説。』

10年毎に語られる手毬の人生。
語り手は本人だったり周りの人間だったり。

後先考えずに流されているだけのように見えるけれども、家族に愛されわがまま放題に育った7歳の時以降の人生は、無意識に周りの望むような姿で生きていたのではないか。

手毬の周囲の人間が、何を考えどう感じて生きているのかは書かれていない。
たとえば母の再婚相手。彼が手毬のことをどういう目で見ていたのか。
その連れ子。義理の姉のことや、その娘と暮らすことの、表面的ではないどろどろとした思い。
幼馴染みであり駆け落ちの相手。なぜそんな行動に出たのか。再開するまでの暮らしや、その後の生活。
さらにその先の手毬の人生。

輪郭は描かれていても、内面が書かれることがないのは、手毬がそこまで深く相手を見ることがなかったからなのかもしれない。
だから、流されているように見えるのではないだろうか。

でも本当は、周囲の望むようにふるまわないと、愛されないという強迫観念があったのではないかと思う。
いい子でなければ。良い妻でなければ。より必要とされているのなら。
行動の起点はそこにあるのではないか。

精神的に幼くて自己中心的な母親は、親として失格だろうけど、それでも彼女なりに娘を愛していたはずだ。
「蹴鞠の鞠ではなく、手毬の毬です。」
その愛情は、娘に伝わるにはあまりにも自分勝手すぎたけれど。
ありのままでも愛される自信があれば、手毬にも違う人生があっただろう。

はたから見れば奔放に生きたように見えるけれど、彼女が本当に自分でいられるようになったのは最後の章、67歳の手毬。
それは幸せというには少し淋しいけれど、でも決して不幸せなことではないと思う。