今年もイグ・ノーベル賞の発表がありました。
実は私、イグ・ノーベル賞のファン。
直接文明社会に貢献しないかもしれませんが、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」って、なんかいいじゃないですか。

日本人の受賞率が高いので、覆面選考委員に日本人がいるんじゃないかという説もありますが、それでもこういう研究を日本人がたくさんしているというのもいいですね。世知辛くなくて。

今年日本人の研究で受賞したのは、「バナナの皮が滑ること」の研究について。
いいね。
これが実用化されたら、札幌地下鉄のレールとタイヤの間にバナナの皮を挟みこむことによって摩擦係数が少なくなり燃料費が安く上がるとか、バナナの皮を交換するための雇用の創出があったりとか、地下鉄で使用するバナナの皮のために市民一人当たり毎日2本のバナナの配給があったりするようになるかもしれないじゃん。←めちゃくちゃ世知辛い

私も貰うとしたらノーベル賞よりイグ・ノーベル賞がいいわ。←何様?
受賞コメントならぬ歌も面白かったです。


さて、明日から次男と二人で10さんの家をベース・キャンプに、あちこち遊んでまいります。
10さんが羽田まで迎えに来てくれるというので、お言葉に甘えることにはしたのですが、なんで?という気持ちは否めません。だって一応大人ふたり旅ですからね。

10さんが心配したのは電車の乗り換えだったらしいです。
「高速バスでいいじゃん。」と、私。
「あ…なるほど。じゃあ、俺家で待ってるわ。ちょっと高いし時間も不規則だけど、乗り換えがないから荷物が重くてもそんなに大変じゃないだろうしね。」

ちょ…待~て~よ!
迎えには来るけど、荷物を持ってくれる気はなかったんかい!

まあ、いいや。
自分のことは自分でね。
って言うのが昨日までの話。

今朝、突然大事なことに思いあたった私。10さんに電話しました。
「バスで行くのはいいんだけどさ、10さんちの住所知らないからどこで降りていいのかわからないよ。バス停の名前教えてもらったって、どこに向かって歩けばいいのかわからないよ。」
「じゃあ、バス停まで迎えに行くから。」

なんで10さんはかたくなに住所を教えようとしないのか?
私に隠れて、誰かを囲っているのか?このエロおやじ!
いや、10さんに限ってそんなことは…。
もしかしたらつぶらな瞳にほだされて、隠れてノラの小犬を飼っているのかもしれないじゃないか。落ち着け、私。

ええと、これから私たちがお邪魔するにあたって、住所が言えないわけって何よ?
「ようこそ我が家へ」って原っぱの土管に連れて行かれたらどうしよう?
10さんのつぶらな瞳にほだされた野良犬が、飼っていてくれてたら…。



本日の読書:SOSの猿 伊坂幸太郎

カバー裏より
『三百億円の損害を出した株の誤発注事件を調べる男と、ひきこもりを悪魔祓いで治そうとする男。奮闘する二人の男のあいだを孫悟空が自在に飛び回り、問いを投げかける。「本当に悪いのは誰?」はてさて、答えを知るのは猿か悪魔か?そもそも答えは存在するの?面白くて考えさせられる、伊坂エンターテインメントの集大成!』

いやいや、面白かったです。
もっと孫悟空かと思っていたのですが、それほど猿の濃度は高くなかったような気がします。

デビュー当時の伊坂幸太郎は村上春樹の二番煎じみたいな言われ方もされていましたが、村上春樹がよくわからない私は、伊坂幸太郎の方が読みやすくてわかりやすくて、全然違うと思ったものです。

作者本人が『ゴールデンスランバー』をもって自身の第一期の終了と言っていますが、その後に続く第二期は、第一期ほどには売れていないというか、ファンの評価があまり高くないようです。
私には、伊坂幸太郎が書きたい世界はそんなに変わっているようには思えません。
ただ、以前は彼の独自の世界が厳然とあって、それは私たちの世界とは無縁のところにあったような気がします。これは村上春樹にも言えるというか、村上春樹の方が先ですね。
今は、突拍子もない設定の小説であれ、彼の書く世界は私たちの世界に少し近づいてきているような気がします。

それが、嫌だと思う人もいるでしょう。
特に見たくなかったり考えたくなかったりした物のそばに、伊坂幸太郎の世界が来ちゃった場合は。
第一期にあった読後のカタルシスが、簡単には感じられなくなったということはあると思います。
でも、丁寧に読めば読んだだけのものをきちんと返してくれるのが、プロの作家伊坂幸太郎の力であり、醍醐味だと思っているんですよね。

簡単に読めて楽しめるものから、少し考えて感じて楽しむものへ。
伊坂幸太郎がそのようにシフトチェンジをしたのなら、私はファンとしてついていこう、と思っているの。

でもってこの作品。
突き付けられた問いに答えるのは、やはり難しい。
暴力は善なのか、悪なのか。
暴力が善とは思わないけど、話してわからない相手に理解させるときに暴力は有効だ。
おしりぺんぺん、とか。

けれども、話せばもしかしたら膨大な時間の果てに分かり合えるかもしれない相手に、手っ取り早くわからせようと暴力をふるうのはやっぱり嫌だな。
ふるわれるのはもっと嫌だし。

理解しあえるのは幸いだと思う。
けれど、理解しあえない相手は敵なの?
世の中には敵と味方しかいないの?
善か悪かしかないの?

悪を取り除いて善だけになろうとする思想と、悪も善もそこにあるものとして受け入れる思想。

わかった気になって理解する努力をやめたとき、そこに断絶が生まれる。
親子関係であれ物事の真理であれ。
だから理解しようとし続ける。
それが私には心地よい。