札幌はなんだかとても天気がいい。
職場の窓を開けると入ってくるさわやかな風、そして温かな陽の光。
なんだか読書の秋よりも食欲の秋よりも、何よりも睡眠の秋です。
お昼休みに女子ーズはこくこくと転寝をするのでした。
秋の夜長もちゃんと寝ているのに、なぜこんなに眠いのかと職場の女子ーズは悩みますが、私は年がら年中眠いのでNO問題。
というかですね、同世代の人たちの話を聞いていて以前から思っていたのですが、「年寄りは朝が早い」ってよく言いますよね。
男性陣は確かに早起きになっているようなのですが、女性で早起きになった人が私のまわりにはあまりいません。
もちろん、起きなきゃいけないときは早く起きますよ。
でも、お休みの日は割とゆっくり寝ていたいというのはほぼ女性。
これは、類が友を呼んでいるからなんでしょうか。
それとも一般的に女性はよく寝るのかしら?
でも、不眠症の率はあまり男女差がないような気がするなあ。
不眠症ではない人の起床時間に男女差はあるのか?ないのか?
後輩男性に「年のせいか最近早く目が覚めるんだよなあ。」と言われても、一向に早く目が覚めない私なのです。
でも、さすがに10時間以上連続では寝なくなったなあ。
うーむ。私も大人になったぜ。( ̄∇ ̄+)
本日の読書:龍宮 川上弘美
カバー裏より
『女にはもてるのに人間界にはなじめなかった蛸、七世代前の先祖にひとめぼれする二百歳の女、曾孫の前に突如現れ、放浪の果てに自然神となった曾祖母、男の家から海へと帰る海馬―。人と、人にあらざる聖なる異類との交情を、説話的な要素と日常のリアリティを融合させて描いた玉手箱のごとき8つの幻想譚。』
人と、人にあらざる聖なる異類。
読む前は梨木香歩の「家守綺譚」を思い浮かべたのだけど、読んでいるとちょっと違う。
「家守綺譚」は人と人にあらざるものは、互いにあまり違いを感じていないように思う。
ちょっとした個性程度の差。
この短編集に収録されている作品の中で、人と人にあらざる者は融け合い混ざり合っても、決して同化はしない。
けれども、人が確固とした人であるのかというと、それもまた違う。
本人が人と言っているだけで、それは私たちが通常知っている人とは明らかに違う。
限りなく狐に近い人。生きる気力を取り戻すためにモグラのコートのポケットに入り込む人。壁の漆喰を食べる人。
それでも、人と人にあらざるものは違うものとして書かれる。
海から上がり、人の男とまじわり何人も子どもを産んだ海馬は最後海へ帰り、蛸は人間になって二百年経っても、やっぱりぐにゃぐにゃと揺らぐのだ。
人間の会社に勤め、仕事帰りにアレを拾って帰るうごろもち(モグラのこと)。
“アレも、生きる精というもののなくなってしまった人間たちなのかもしれなかった。アレは、ほうっておくと、虚になってしまうのだ。アレ自身も、アレのいる場所も、そのうちにはアレのいる場所の周辺をも、虚にしてしまう。実でないものにしてしまう。”
そのアレを家に持ち帰り、人間の社会に戻っていけるまで家で放っておくモグラ。
声を掛け合わず、視線を合わさず、触れあわない人間を、寒いと思う。暖かいのが好きなモグラは、それでもアレを拾って人間に返す。
そんな「うごろもち」が好きだな。
読んでいて内田百閒を感じたのだけど、作者は百閒先生を敬愛しているらしいので、あながち間違った読み方をしていない、と安心。
全ては勘違いだ!となると、やっぱりへこむものね。
職場の窓を開けると入ってくるさわやかな風、そして温かな陽の光。
なんだか読書の秋よりも食欲の秋よりも、何よりも睡眠の秋です。
お昼休みに女子ーズはこくこくと転寝をするのでした。
秋の夜長もちゃんと寝ているのに、なぜこんなに眠いのかと職場の女子ーズは悩みますが、私は年がら年中眠いのでNO問題。
というかですね、同世代の人たちの話を聞いていて以前から思っていたのですが、「年寄りは朝が早い」ってよく言いますよね。
男性陣は確かに早起きになっているようなのですが、女性で早起きになった人が私のまわりにはあまりいません。
もちろん、起きなきゃいけないときは早く起きますよ。
でも、お休みの日は割とゆっくり寝ていたいというのはほぼ女性。
これは、類が友を呼んでいるからなんでしょうか。
それとも一般的に女性はよく寝るのかしら?
でも、不眠症の率はあまり男女差がないような気がするなあ。
不眠症ではない人の起床時間に男女差はあるのか?ないのか?
後輩男性に「年のせいか最近早く目が覚めるんだよなあ。」と言われても、一向に早く目が覚めない私なのです。
でも、さすがに10時間以上連続では寝なくなったなあ。
うーむ。私も大人になったぜ。( ̄∇ ̄+)
本日の読書:龍宮 川上弘美
カバー裏より
『女にはもてるのに人間界にはなじめなかった蛸、七世代前の先祖にひとめぼれする二百歳の女、曾孫の前に突如現れ、放浪の果てに自然神となった曾祖母、男の家から海へと帰る海馬―。人と、人にあらざる聖なる異類との交情を、説話的な要素と日常のリアリティを融合させて描いた玉手箱のごとき8つの幻想譚。』
人と、人にあらざる聖なる異類。
読む前は梨木香歩の「家守綺譚」を思い浮かべたのだけど、読んでいるとちょっと違う。
「家守綺譚」は人と人にあらざるものは、互いにあまり違いを感じていないように思う。
ちょっとした個性程度の差。
この短編集に収録されている作品の中で、人と人にあらざる者は融け合い混ざり合っても、決して同化はしない。
けれども、人が確固とした人であるのかというと、それもまた違う。
本人が人と言っているだけで、それは私たちが通常知っている人とは明らかに違う。
限りなく狐に近い人。生きる気力を取り戻すためにモグラのコートのポケットに入り込む人。壁の漆喰を食べる人。
それでも、人と人にあらざるものは違うものとして書かれる。
海から上がり、人の男とまじわり何人も子どもを産んだ海馬は最後海へ帰り、蛸は人間になって二百年経っても、やっぱりぐにゃぐにゃと揺らぐのだ。
人間の会社に勤め、仕事帰りにアレを拾って帰るうごろもち(モグラのこと)。
“アレも、生きる精というもののなくなってしまった人間たちなのかもしれなかった。アレは、ほうっておくと、虚になってしまうのだ。アレ自身も、アレのいる場所も、そのうちにはアレのいる場所の周辺をも、虚にしてしまう。実でないものにしてしまう。”
そのアレを家に持ち帰り、人間の社会に戻っていけるまで家で放っておくモグラ。
声を掛け合わず、視線を合わさず、触れあわない人間を、寒いと思う。暖かいのが好きなモグラは、それでもアレを拾って人間に返す。
そんな「うごろもち」が好きだな。
読んでいて内田百閒を感じたのだけど、作者は百閒先生を敬愛しているらしいので、あながち間違った読み方をしていない、と安心。
全ては勘違いだ!となると、やっぱりへこむものね。