昨日パンを買い忘れたせいで、今日の朝ご飯はうどん。
朝からうどんをゆでて、ずるずる食べて、お昼までお腹がもっちり。
仕事をしていてもなんだか息苦しい一日でした。
そんなわけで、今日は忘れずにパンを買いました。

ところでここ10年近く(以上?)気になっている言葉があります。
夜ご飯。

私が子どもの頃は、この言葉はなかったような気がします。
初めて目にしたのは多分江國香織の小説かエッセイ。
ああ、オサレな人はわざとこのように言うのね、なんて思っていたのですが、いつの間にやらすっかり市民権を得たようです。

新しい言いまわし、新しい言葉は次々と生まれてきていますから、けしからんというつもりはないのです。
ただ、違和感。

朝ご飯、昼ご飯ときたら、次に来るのは夕ご飯か晩ご飯。
朝飯(あさめし)、昼飯(ひるめし)ときたら、夕飯(ゆうはん)か晩飯(ばんめし)。
朝餉(あさげ)、昼餉(ひるげ)ときたら夕餉(ゆうげ)か晩餉(ばんげ)。(あれ?晩餉は変換されないぞ。方言か?)
朝食、昼食ときたら、夕食か夜食。

で、夜食だけ違うんですよね。
夜食は夜中に食べる軽食というイメージがあります。

調べてみたら、朝の反対が晩。昼の反対が夜。
わかりにくい。

もう少し調べると、晩というのは夜の早い時間帯のことで、夜というのは夜中に近い時間帯なのだそうです。
つまり、夜食を食べるあたりの時間。
だから夜ご飯というのは私にとっては、どうも夜中に食べるご飯ということで違和感を感じるようなのですね。

だって、夜中に一汁三菜は食べんでしょう?身体に悪そうだし。

どこで刷り込まれたのかは思い出せませんが、晩ご飯は7時前後というのが、私のなかでの決まり事なのです。多分子どもの頃そのくらいの時間に食べていたからだと思いますが。
だから私にとっては晩ご飯は言葉と実態が合っているのです。

でも、今は大人も子どももなかなか晩にご飯を食べられなくなっているのかもしれませんね。
残業続きの、長距離通勤のお父さん、お母さん。
塾通いの子供たち。
夜ご飯が違和感なく受け入れられているというのは、そういう世の中の変化の故かも知れません。

せめてお盆休みの今くらいは、家族そろって晩にご飯を食べられるといいですね。

Have a good Bon!(よいお盆を!)

魂の公務員ことゴン・マピ山は、明日も仕事です。



本日の読書:いまどきの老人 柴田元幸=編訳

Amazonより
『老人小説は少年小説であり、老婆小説は少女小説である。「老人」と「子ども」が連帯した、不気味なおじいさん・おばあさんの物語。「おばあちゃんと猫たち」「紳士のC」など8編を収録。』

老人小説より老婆小説の方が面白いと思ったのは、常識の枠からのはみだしっぷりが老婆の方が大きいから。少なくともこの短編集のなかでは。

最後の最後できゅっとひねった落ちがつく短編小説が個人的には好きなのだけど、ここにはそこまでシャープなものはない。

にやりと笑える「おばあちゃんと猫たち」
あ、そういうことだったのと最後にわかる「リバイバル」
正統派の怪談「プール・ピープル」
じわじわと薄ら恐い「ミスター・イヴニング」

あたりを面白く読んだ。
あら、ちょうど半分。

短編なので、あまり詳しく書くとネタバレになってしまう。

でも「ミスター・イヴニング」の、交流を拒絶するような交流。その拒絶のなかに潜む、からめ捕られていきそうな恐怖。
最後にそこまでやるのか~!という描写。
私だったら絶対泣くね。
そう思いながら一気読み。一番好きな話。

「冬のショパン」は、多分明日あたりにじんわりと沁みてきそう。

いろんな作家の書くいろんな老人。
今も昔も、ただ者ではない老人が面白い。