最近歩きスマホに対する注意喚起をよく目にする。歩きスマホをしていたために、事故に遭った人などがいるからだ。
私はスマホを持っていないから大丈夫!というわけではなくて、まあ、歩き携帯もしますが…歩き読書をよくします。それはもう、子どものころから。もはや達人の域に達していると言えましょう。
歩きスマホの何がいけないって、画面を読むことに集中しすぎて、周りに意識をむけることが出来ないこと。
主は歩くことなのですから、画面だけではなく、足元、または前方に注意をしなければなりません。混み合った道でしたら、すれ違う人にも注意をしなければなりません。
つまり、歩きスマホをする方は周囲の気配に敏感に対応できるよう、集中力を分散させるという二律背反を実践できなければなりません。出来ないのならば、歩きスマホはしない方がよいでしょう。
今でこそ歩きながら読むことに対して世間の目は冷たいですが、私がランドセルを背負って歩き読書をしていたころは、大人の人たちは一様に「お。二宮金次郎か。えらいえらい。」とほめてくれたものです。
時代は変わってしまったのね。
そして、もっと多い歩き何とか。それは歩き音楽でしょう。
若者だけではなく大人もすなる歩き音楽。私はしないんですよね。
本と音楽のない生活なんて耐えられないと言っておきながら、歩くときに音楽は聞きません。
たぶん視覚の注意がほかの人より足りない分、聴覚で危険に対応しようとしているのでは。
けれど、脳内ラジオではいつも音楽を聴いていますよ。
今年一番再生回数の多い曲はどぶろっくの「妄想ロック」
もしかしてだけど~
もしかしてだけど~
マッピーってや~っぱり
おバカさんなんじゃないの~
………なんか、すみません。すみません。
週に2回は脳内ラジオで再生エンドレスになってしまいます。やっぱバカだわ。
本日の読書:ザ・ギバー 記憶を伝える者 ロイス・ローリー
Amazonより
『社会にうずまく悪や欲望、苦痛や悩みなどがすべてとりはらわれた理想社会―喜怒哀楽の感情が抑制され、職業が与えられ、長老会で管理されている規律正しい社会―「記憶を受けつぐ者」に選ばれた少年ジョーナスが暮らすコミュニティーは、ユートピアのはずだった。けれども、理想の裏に隠された無味乾燥な社会の落とし穴に「記憶を伝える者」とジョーナスが気づいたとき、そこに暮らす人々が失っている人間の尊厳にまつわる記憶の再生を計ろうとする。二度のニューベリー賞受賞に輝くロイス・ローリーが贈る、衝撃的近未来ファンタジー。1993年度ニューベリー賞受賞。』
日本では19年前に出版された、ヤング・アダルトの小説。高校生の読書感想文、課題図書になっていました。
けれど、今読んでもちっとも色褪せません。それどころか、もっと読まれてほしい本。大人にも。
帯には俳優の米倉斉加年の文章が記されている。
「主人公の少年は未来のコミュニティーに生きている。しかし、読み進むにつれて、この話がSFでも近未来の話でもなく、実は現代を語っていると気づく。一人の〈記憶を伝える者〉にすべての記憶を託して、コミュニティー全体は無責任に快楽をむさぼるその構造に、歴史の苦悩を、戦争を忘れ去り、沖縄にすべてを押し付けて幸せをむさぼろうとする日本の姿を見た―。」
規律正しい管理社会、それは画一化された社会なのである。他人と違わないことが何より重要で、与えられたものを疑問も持たずに受け入れるメンタルが必要とされるのである。
自分で何かを選ぶことは一切ない。一人の人間は間違えることがあるから。
これだけでも、かなり重量級のテーマなのに、最後が…。
読む人によって解釈はいろいろなのだろうけど、私は今回は悲劇だと思いました。
その先に見える光。できれば幸福の光であってほしいものだけれど。