朝、雨が降っていました。

寒い、寒い。とみなさんに言われても、12月に雨が降るのは、やはり寒いとは言えません。

とはいえ、さすがに吹く風は冷たいので、春雨のように濡れて参りたいとは思えませんが。

外でたばこを吸う人たちが、えらく寒そうでした。


夕方、研修所の渡り廊下を走っていると、びょうっと強い風が吹いていました。

又三郎にしては遅いと思いましたが(りんごの季節は終わりましたものね)、野分としても遅いのでしょうか。

本州の秋と冬の区別がよく分かりません。


寮の暖房を切ったまま生活しているのは研修生のみなさんに内緒ですが、今日は研修室の暖房もこっそり切ってしまいました。(日直の特権)

だって暖かいもの。

それにしても5人しか日直にならないのに、前回も今回も日直の当たる私。何かの陰謀なのかしら?


明日はいよいよ実習だー。

一日パソコンと向かい合っているはずだから、いつの間にかノートの片隅におばけのQ太郎が出現することはないはずだ。←まだ見ないで描けてしまう自分が怖い。数百年ぶりに描きました。


本日の読書:青桐 木崎さと子


カバー裏より

『乳癌にかかりながら、一切の医療をこばんで、叔母は逝った。その死を受容する姿を見つめるうち、姪の心にあった叔母へのわだかまりが消えてゆく。そして、精神の浄化をおぼえる彼女におとずれたものは……。一本の青桐が繁る北陸の旧家での、滅びてゆく肉体と蘇る心の交叉を描く魂のドラマ。芥川賞受賞作品。』


「青桐」と「白い原」の二編が収められています。


表題作の内容はカバー裏のとおり。癌をもそのままの自分として受け入れ、静かに死と向かい合う叔母と、その世話をする姪の話。ストーリーとしてはそれだけだけれども、尊厳死というものの与える、周囲への影響?負担?なんだろう。

苦しいのは患者なんだけど、見守っている人たちだって痛みはわかるし、何とかできるのに手をこまねいているのではないかという罪悪感はあるし、でもその凛とした思いを尊重したい気持ちもあるし。


そして、ほんの目立たない顔のやけどのせいで、自分をずっと押し込めて、人目に立たぬよう生きてきた姪。いとこへの想い。慕いながらも違うのではないかという叔母へのわだかまり。


無神経で自分勝手な隣人に対する叔母の明るい無関心。


重苦しい話なんだけれども、どこかきっぱりと爽やかなのは、叔母の人柄と、これからを生きる青桐(姪)の吹っ切れた未来のせいかもしれない。


「白い原」

100ページもない作品。

不登校だった中学生の家庭教師をした縁で、新興宗教にはまった娘の目を覚まさせてほしいと頼まれる主人公。

彼女は2度の妊娠中絶のせいでその後子どもが授からず、そのことでずっと自分を責めている。早すぎる更年期障害は、精神的なところから来るものかもしれない。


悩まない人間なんていない。自分を責めたことのない人間なんていない。そういう負の思いを纏うことが、実は生きるということなのかなあと思ったり。


親が子どもを愛するあまり、子どもが親を喜ばせようと思うあまり、親が子どもの心を殺してしまい、子どもが親を殺すこともある。

読んでいてヒヤリとしたところ。


そうなるくらいなら、親は子どもにキレて怒鳴り、子どもは親をキレさせてビビるくらいが健全なのでしょうね。