夜勤明け。ユニフォームも着替えずに喫煙所でマッチを擦るわたし。ゆらりと小さい炎がゆらめく。手をかざして火をつけ、深く吸い込みつつ喉と肺が焼ける感覚を味わう。ふーっと息を吐き、ふとユニフォームの胸元をつかんで臭いを確かめる。どうせ汗臭くたってお風呂に入れるわけではないのだしと、すぐにあきらめてもう一服。あぁ、でもなんか気持ちが悪いからあとで身体を拭こうと決意したところで。

「はー……」

 大きくため息が出た。まったくわたしはなにをやっているんだろうか。早く帰ればいいのに。時刻はすでに、正規の退勤時間よりも3時間を過ぎていた。眠気を通り越し、逆にハイになりつつある。共に夜勤をしてた飯田さんからは夜勤中顔を合わせるたびに「楽しみっすね」と明けた後――つまり本日の夜開催される女子会を楽しみにしている旨を報告された。わたしももちろん楽しみではあるし、そのために夜勤をわたしなりにかなり入念に下準備をし業務をすすめてきたのだが。

 急な体調不良者が出てしまい、夜勤の予定が深夜0時過ぎから大幅に狂ってしまった。

 明日夕方より開催予定の主任会議の資料が間に合わなかったのだ。1週間みっちり評価してから資料に起こそうとしたのが間違いだったのか。いや間違ってはいない。全ては想定外の出来事のせいだ。かといって体調を崩した入居者様にあたるわけにもいかず、やり場のないこの感情の行き所を、ひとまずため息に混ぜて吐き出していた。そんな気を抜きまくっていた矢先、喫煙所のドアが開く。

「うおっ」

「お……なんだ」

「なんだってなにかね主任」

 喫煙所に乱入してきたのは藤川さんだった。

 所長にまた小言を言われるのかとびっくりしたが。少し安心しつつ乾いた笑みを向ける。「もう休憩時間ですか」

「そうよ、なにやってるの」

「会議の資料が」

「あー、明日だっけ。……またタバコ吸って。メシを食えメシを」

「食べたら寝ます」

 人間は不便だとたびたび思う。なぜ食事と睡眠がセットなのだろう。

「今日女子会でしょう。あとどのくらいなの?」

「だいじょうぶです、あと…………20分で終わる予定」

「そうか。まぁ呑んできな。飯田によろしく」

 吸いかけのタバコを灰皿に放り込み、「了解ですっ」と気合を入れて喫煙所を後にする。気持ち体力と気力が回復したところで更衣室で汗を拭き、再びパソコンに向かう。

 

 結局あの後30分ほどかけ資料を作り終えた私は14時すぎに自宅へついた。途中、ファミレスによって昼食を済ましてしまったわたしは、帰宅直後あまりの眠気にビーズクッションを枕にやや長めの仮眠をとることになる。起きたのが4時間後。待ち合わせまで1時間。化粧も落とさずに寝てしまい、まだ風呂にも入っていないことに絶望しつつ寝ぼけ眼で浴室へ向かう。結果待ち合わせより5分ほど遅れて、指定のバス停(ここは今時最寄りの駅がないほど鉄道が発達していない)に到着した。

 かなり眠たい。

「お疲れっすゆきかさん!」

「ごめん、遅れた」

「いいです。結局残ったんですよね。あたし、なんか手伝えたらよかったんだけど」

「だいじょうぶ。今回は、十分飯田さんにも助けられたよ。これ以上助けられたら……」

「ちょっと。今回は、ってゆきかさん。いつも助けてるでしょー」

 かなり高い頻度で、夜勤中に恋愛相談を仕掛けてくる飯田さんだったが、仕事を貯めているときなどは正直ちょっと黙っていてほしいと思う時がないでもない。だが今回はおおいに助けられた。夜勤自体も、おそらく飯田さん自身も女子会だと気合を入れていたのか、フロアの違うナースコールにもかなり敏感に反応して駆けつけてくれたほどだった。この一週間の間の、佐野坂さんの経過観察にしてもそうだ。明日の発表を前に、津谷さんへも報告を兼ねて資料を提出したのだがなかなかの好印象だった。わたし一人では、きっとここまでの発想はなかった。

 痛みには薬を飲ませるべきだ、という自分の先入観を恥じたい。

「おぉ、なんか石鹸の香りする。エロい!」

 …………前言を一部撤回したい。

「繁華街なんだから大声でそういうこと言わないで」

「えー、田舎じゃないっすか」

「そういうことも大声で言わないで」

「じゃ、小さい声で。ちょっと濡れてる髪とかもうなんともやばいス」

 あきれつつも、自然と笑顔がこぼれてくる。久しぶりに肩の荷が下りた気がして、夜風が気持ち良い。お店の予約ありがとう、と柄にもなく微笑んでみる。

「え。予約してないっす。行き当たりばったりでいいかと。二人だし!」

「…………ま、まぁたまにはいいか」

「そうこなくちゃー。今日は帰しませんよー」

 こうして慕ってくれる同世代は、介護施設では基調だ。事実飯田さん入職前は、こうして女子らしい会話は皆無で気軽に(これでもわたしは気軽に話している)なんでも話せる飯田さんの存在は大きい。職場では仕事の愚痴ができないが、2人で食事に行ったときは別だ。

「そういや、午後までいたんですっけ。佐野坂さん今日はどうでした?」

「うーん、やっぱりお部屋に戻ると歯が痛いと言っていたけれど、仙台さんがリハビリ始めてくれた。そのあとは見ていない」

「やっぱ気を散らすのが一番なのかなー」

「……みんなのおかげ。ありがとう」

「やばい、それキます。きゅんてキます。ツンデレ?」

「…………」

 この子といると、真剣な話がすぐに路線変更されてしまう。以前血液型を何気なく聞いたが、確かA型だった。信じられない。

 まぁ今日のところは大目に見たい。

「にしても藤川さん面白かったですねー。朝イチで佐野坂さんのこと話したら、フリスクでも飲ましとけだって」

 あっはっはと笑いながらわたしの肩をばんばん叩く。

 佐野坂さんの一件は、結果として一応の解決策を見出せた。しかし、パソコンの動作確認などと違い、すぐに評価ができない。繰り返せばぼろが出るし、誰でも対応ができなければいけないのだ。誰かがいる日だけ対応ができるというのは、わたしが考えるに望ましい対策ではない。けれど、それにしても今回は確かな手ごたえを感じていた。いつもは憂鬱な会議が、少し楽しみになるくらいに。