昼食後。
やや慌ただしさを感じさせるフロアで、ナースコールが鳴った。
部屋番号を確認し、通話ボタンを押す。
「シエさん、どうしました?」
『宮野さん?わたし佐野坂シエです』
「はい、宮野です」
『歯が痛くて困っているの。あなたなら何とかしてくださる?』
「んー、ちょっと見に行きます」
『はい』
わたしは、病には必ず原因があるものだと思っていた。ケガをしたから痛むわけだし、病気をしているから苦しいのだと。痛むのなら痛む個所に薬を塗ればよいはずだし、苦しいのなら内服薬で症状をやわらげればよい。けれど、ここ数日でわたしはそうした常識が必ずしも通用するわけではないのだと痛感していた。
入室に際し、ノックを――。しようとしたが念のために確認の電話を入れる。
「宮野です、おつかれさまです。仙台さん」
呼び出しからややあって、応答してくれた。
『おつかれっす。どうしました?』何かの直後だったのか息がやや切れている。
「今大丈夫ですか。佐野坂さん、お昼の後対応してくださいましたっけ」
『はい。……あ、またっすか。口腔ケアの時は普通でしたよ』
「わかりました、ありがとう」
『はいー』
これ以上ないくらいに丁寧にノックをして挨拶。入室すると、ベッドに腰掛けた状態で佐野坂さんがこちらに顔を向ける。70代後半。病院を退院し、そのまま施設に入居。当初は寝たきりに近い状態だったものの、現在では車いすで移動ができてトイレでも立ち座りは自力でできている。素晴らしい回復ぶりだ。言葉遣いも丁寧で、よく周囲の入居者の方を気にかけてくださる。漢字の書き取りを熱心に取り組まれる方でもあり、その美文字ぶりにスタッフ一同を驚かせている。次は書道やってみましょうという看護主任の熱いお誘いをいつも断り続けている。
「あら、宮野さん」
痛みがあるのか、ややぎこちない笑みを向けてくださった。
「シエさん。お休みのところ、すみません。痛むところ見せてくれませんか」
「いいよ、はい」
口を開け、左下を指さす佐野坂さん。
食事中、入れ歯が入っていたであろう部分には、目につく範囲では傷のようなものはない。心の中で、ため息が自然と出る。
「このへんですか」
「そうなの。赤いでしょ」
「そうですねー。ちょっと赤いかな。かなり痛みます?」
「痛くて寝ていらんないの」
そうか。やはりまた……。
原因がわからない。
いや、原因のない痛み。
「ちょっと、看護師さんに聞いてみます」
わざとらしく……ではなく。あえて目の前でPHSを取り出して看護主任の津谷さんへ連絡とる。
「おつかれさまです、宮野です」
「はい、津谷です。佐野坂さんの件?」
さすが看護主任である。こちらが報告する前にすでに要件を理解していた。
「薬持っていきます」
最低限の連絡でPHSが切れる。やや機嫌が悪そうな声だったのは考えないことにし、再び佐野坂さんへ向きなおる。
「いまね、看護師さんが来てくれます。もう一度、見せてもらっていいです?」
「あらそうなの。なんだか申し訳ないわね」
再び口腔内を確認しながら、何もないことを確認する。
歯がなく、歯茎しかない場所を指し痛いという佐野坂さん。歯科医にも往診医の伊砂さんにも確認してもらい、問題がないことを確認してもらった。しかし、佐野坂さんは毎日昼食後と夕食後に、歯が痛いとナースコールを下さる。正直施設でもお手上げの状態だった。痛いのならと痛み止めの処方があるのだが――、
「失礼します」津谷さんが部屋に入ってくる。「痛い?同じところ?」
ああ、津谷さん少し機嫌が悪いかもと思いながら近くで見守る。
「これ、痛み止めの薬です。先生から出してもらってるものね。今飲める?」
「はい。ありがとう。すみませんね」
痛み止めが佐野坂さんの口の中へ。
「はい、飲みました」
「じゃあ、これでしばらく様子を見ましょう」
津谷さんからアイコンタクト。退室を促される。一礼して退室。津谷さんに続いて居室を出た。階段を使い1階へ下りる。1階で服薬の記録を打とうとしたところで再び鳴るナースコール。部屋番号を確認。
「はい、シエさん?」
「佐野坂です。歯が痛いんだけれど」
認知症の方は短期記憶保持ができない。先ほど薬を飲んだことも忘れてしまわれたのは仕方がないことだが。
「さっきね、看護師さんからお薬をもらったかと思うんですけれど……。もう少し様子を見ませんか」
「だって痛むんですもの。お薬くださらない?」
痛み止めはそう何錠も服用するわけにはいかない。かといって痛みのある状況で何もしないわけにはいかない。津谷さんと顔を見合わせ、どちらともなくため息をついた。
この見えない痛みに、わたしたちはどう対処すればよいのだろう……。