もうすぐ10年になる。
15歳に初めて覚えた絶望を知って10年経とうとしている。
病気が発覚して、いろいろな説明を先生や看護師さんがしてくれているとき、俺が質問したら「泣いててぼぅとしてるから聞いてなかったのかと思った」といわれた。
栄養投与治療があって、飲んでみたらくそまずかった。
これ毎日飲めるかと聞かれ、首を振ったら、「じゃあチューブやね」と先生はいって、
鼻からチューブを挿してきた。
痛みで悶絶する俺の体を数人でおさえてた。
それから鼻からチューブを挿して栄養を取り込む日々が始まった。今も続いている。
一ヶ月ほど入院した。部屋の豆電球がまぶしくて寝れなかった。
不安で寝れなかった。
夢も見れなかった。漠然と考えてた、“なりたいもの”がその期間のうちに全部ふっとんだ。
退院したある日、母親とケンカした。
詳しいことは忘れたけど、文句ばかりいってる俺に嫌気がさしたのかもしれない。
俺がチューブを机に投げ捨て「じゃあ、これ毎日やってみろや!」と怒鳴った。
母は反論しなかった。
ケンカが収まってから、母親は「これからは“やってみろ!”って言い方はせんといて」
と言ってきた。
それ以来俺は病気のことで母にあまり当たらなくなった。
変わりに母は「健康に産んでやれんでごめんね」とたまに謝ってくるようになった。
あまり外に出なくなった。
行きたくなくてもつい、常にトイレを探すくせがついた。
高校生になって、硬式野球をしたかったが、ハードだから無理だろうと思って、軟式野球部に入った。これはこれでなかなかハードだった。
遠征先の食事では油っこいものを避けた。
そんな選手が大成するわけもなく、一度も公式戦に出場することなく野球人生が終わった。
高校生活もなにもなかった。
別の病気で入院したときは本当に嫌になった。
彼女なんて出来るわけがなかった。
大学に進学することになった。
親父は県外に行けと言ってくれた。
母は寂しがったが、俺は一生一人で生きていかなければならないと思っていたから、病気のことも生活もひとりでこなせるようになるために県外の大学に進学した。
授業や友達と過ごす以外はずっと家にいた。最初はバイトすら怖くて出来なかった。
一時期、不安で、ストレス性の不整脈になった。
抗不安薬を処方された。
その後、病院が変わって、治療にも変化があった。
特効薬的な薬ができて、生活がだいぶ変わった。
ちょこっと社交的になった。
それだけだった。
就職活動が始まった。
地元に戻って就職がしたかったが、面接で病気のことを話すと、面接官の態度がコロっと変わるのが分かった。
4回生になって、地元どうこう言ってなれない時期になった。
障害者手帳を取って、進学した先の県にある会社に障害者として採用された。
事情を知らない同級生には「コネ?」と聞かれた。
仕事が始まった。
通常とは研修の受け方も業務も異なる俺の存在に周りの人たちはどう接していいのかわからない感じだった。
病気のこともイマイチ分からないだろう。
俺は頑張って明るく振舞った。
昔の負の遺産を処理するような俺の業務に、今までやってたやり方ができなくなったと先輩に嫌味を言われた。
俺をひっぱってきた上司は2ヶ月でいなくなり、元々俺と同じ仕事をしてる人は一人もいなかった。
自分の形を作れといわれた。
はよ、病気治せとよく言われる。
治らない病気なんですよと答える。
そんなの気持ちの問題だといわれる。
このやりとりは今でも続いている。
10年経つけど、そんなことはあまり関係ない。一生続いていくんだから。
「君の病気は治らない、だけど僕等は生きてく」(『ももいろクロニクル』より)
