『聖徳太子1400年御遠忌』


『叡福寺』!!
 … 『叡福寺』

























『太子町』





ちなみに、この辺りには 。。。。



「壺井八幡宮」!! 。。。


『源氏三代の墓』!!



もある!!
きらクロネコちゃん↑きらキラキラ











聖徳太子御廟所
『磯長山 叡福寺』








きらクロネコちゃん↑きらキラキラ













































きらクロネコちゃん↑きらキラキラ




聖徳太子1400年
御遠忌大法会




百年に一度の えにし










聖徳廟






『南大門』






























百年に一度の
祭典が開かれる。


きらくろねこ↑きらキラキラ






















































『二天門』






聖徳太子 一四00年
御遠忌大法会



















持国天 !!












増長天 !!









聖徳太子が『黒駒』という名の馬に乗ると、
天高く飛び、『富士山』の山頂を越えて
『信濃国』まで行ったそうです。
その様子はまるで稲妻のようであったとか。

聖徳太子が巡察の途中で、遥か向こうから
光が空に上がっていたのを見て、この光の先の場所を自分の【霊地】にすると決めたところが
『五字ヶ峯』であり、
『聖徳太子御廟』を守るために推古天皇により建立されたのが『叡福寺』のはじまりだそうです。

本足跡





















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推古天皇皇太子聖徳太子
磯長墓



これが !!… 三段になっているのが 特徴 !!
他にはない、特殊なポイント ☆ミ!!
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『聖徳太子磯長墓』

 現在は、太子の墓に入ることは出来ませんが、
江戸時代には太子の信奉者は『御廟』の中に入って『霊棺』に参拝することができました。

その実見の記録が残されています。
 『叡福寺』に伝える『聖徳太子御廟窟絵記文』や細井知慎らの『諸陵修周垣成就記』などがあります。
より確かなものとして明治12年の廟墓修理に当り、時の堺県令税所篤史とともに墓に入った
富岡鉄斎が書いた見取り図や宮内省から出張した大澤清臣氏の実検記が残っています。
これらをもとにして梅原末治の
『聖徳太子磯長御廟』が出版されました。

 太子の墓は『叡福寺』の奥にあり
『御墓山』とも言われています。
自然の地形を利用して築造された
東西径52メートル、南北径42メートル、高さ19メートルの楕円形の墳墓で、二重の『結界石』によって保護されています。
切石をもって築かれた『横穴式石室』があり、
この『石室』は古老の話によると、
御廟正面の扉を入ると石段があり、
そこから10メートルあまり坂を登ると再び扉があり、ここが石室の入口に当り、石で完全に塞がれています。
 『玄室』には
一番奥には太子の母 穴穂部間人皇后、
前面向って左に妃の膳手夫人、
右に聖徳太子の棺が安置されています。
そこで『三骨一廟』といわれる所以であります。
間人皇后の棺は、
一つの石を彫り込んで作った石棺で直接地上に安置してあります。
太子と妃の棺は
乾漆(麻布を漆で貼り合せて作ったもの)の棺で、
これを石の棺台の上に安置しています。
その棺台には、仏具の装飾に用いられている
格狭間が彫ってあります。

この棺のある『玄室』は、
長さ約5.5メートル、幅・高さとも約3メートルで、
出口に当る羨道は、長さ約7.3メートル。
幅約1.9メートル、高さ1.92メートルの規模です。

本足跡






『三骨一廟』




では、写真たっぷりで ☆ミ

きら黒猫↑きら笑キラキラキラキラ























































































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『結界石』




『御墓山』を二重(外側と内部)にめぐらしている立て石を『結界石』といいます。
その“内部の方”は
弘仁元年(810)に弘法大師が参篭の折、
築造されたと伝えられています。
490の石面に観音の梵字を陰刻しています。

 なおこの『結界石』は、
弘法大師一夜の作であって未完成であります。
時ならず鶏が鳴いたので完成することが出来ず、その伝説から古来、太子の集落では鶏を飼わなかったと云われています。
さらに『叡福寺の七不思議』の一つとして、
いくら数えても『結界石』の数が合わないという伝承があります。

 『河内名所図会』には、この『御墓山』に
三つの不思議があると記され、
一つは、
 昔から大雨が降っても土が少しも崩れないということ、
二つに、
 松・杉・竹の類が生えないこと、
三つには、
 鳥がこの林に棲まないことを挙げて、
「是権者の験ならんか」と記しています。

本足跡







『大乗』の教え 。。。






御母・穴穂部間人。。『阿弥陀如来』。。。

御后・膳部郎女。。『大勢至菩薩』。。。


聖徳太子。。『救世観世音菩薩』。。。


きらキラキラ うっとりねこやん キラキラきら




















『太子廟窟偈碑』
 (たいしびょうくつげひ)


🐉         🐉

『聖徳太子廟窟偶』

大慈大悲本誓願   愍念衆生如一子
是故方便従西方   誕生片州興正法
我身救世観世音   定慧契女大勢至
生育我身大悲母   西方教主弥陀尊
真如真実本一体   一体現三同一身
辺域化縁亦己盡   還帰西方我浄土
為度末世諸衆生   父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟   三骨一廟三尊位
過去七佛法輪處   大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣   決定往生極楽界


🐢



太子自らを『救世観音』、
后を『大勢至』、母を『弥陀尊』とし、
末世の衆生を救わんがために身をこの廟窟に残す。
この『三骨一廟』は『三尊』であり、
一度参詣すれば極楽に往生することが定まる。

本足跡














































あの遠くに見える !!… 白い塔は、!!。。。









これだなっ!! 












































『五字ヶ峰』!!

きらクロネコちゃん↑きらキラキラ🐎





『天翔る駿馬と五色の瑞光』

 聖徳太子の愛馬『黒駒』は
空を翔ることができたという。
 推古天皇六年(598)九月、太子二十七歳の時、初めて『黒駒』に乗ることとなった。
これは同年四月に諸国より献上された馬の中から太子自身が選び、自邸で調教してきた
『甲斐産』の駿馬だった。
 そのつややかな漆黒の背に太子が跨がると、
黒駒は雪のように白い四脚で大地を蹴り、一気に空へと舞い上がる。
 太子はそのまま各地を巡り、三日後に帰還した。
 この途次、『富士』の山頂で蹄を休め、
四方を見渡した太子は、
西の方角に天を射す【五色の光】を見とめる。
光が放たれている山の頂まで黒駒を駆った太子。そこは異相の地だった。
生い繁る草木は常に見るものとは違い、
この世のものでないような美しい鳥がさえずっている。
 【五色の光】は地中から天に向かって真っ直ぐにのびている。
瑞光を発しているのは、仏が埋めた
『地水火風空』の【五大の種字】だった。

 のちに『五字ヶ峯』と称ばれることになる
この地を太子は気に入り、
自らの墓所にせんと心に決めた。


















『上の御堂』



 『上の御堂』は、影福寺境内の上段
『御廟』の西側にあります。
石段を上ると『二天門』があり、
門と左右の『透廊・鐘楼』があり、
いずれも享保年間(1716~35)に、
丹南藩主高木主水正の寄進したものであります。
【本尊】は
『聖徳太子42歳の尊像』であります。

本足跡






日本人の心の原点・聖徳太子

聖徳太子が制定した『十七条憲法』は
今日でもなお新鮮さを失いません。
「和」の精神は
世界が今最も必要としている思想です。


聖徳太子は敏達元年(574年)、
『飛鳥の地』に誕生され、20歳で伯母である
【日本最初の女帝】推古天皇の『摂政』となり、
32歳の頃(推古12年)には日本最古の憲法
『十七条憲法』を制定されました。

第一条は
「和をもって貴しとせよ、
忤うことなきを宗とせよ」
という有名なことばから始まり、
第二条
「篤く三宝(仏、法、僧)を敬え」と続き、
【仏の教え】(法)のもとに自己を尊重し、
信念を持って他人と人間性を認め合う
「和」の精神を示されました。
 また、第十条には
「われかならずしも聖にあらず。
かれかならずしも愚にあらず」と、
人間はみな平凡な存在なのだから重要なことは
対話を通じて真理に近づけて決めようという
対立融和を説き、人間社会のすすむべき道を示されました。
それらの「和の精神」は 1400年たった今でも
いきいきとした、【人間の憲法】です。

また、仏教精神を礎として理想的な国家や
社会組織を築こうとされた太子は、
『三経』
(『勝鬘経』、『維摩経』、『法華経』)
の経典講義である『三経義疏』を著されました。
 人間の生き方や尊い命、その責任などについて、世界万国に通じる普遍的な人間生活の基本となるものを説かれ、
身分にとらわれない『冠位十二階』の実践、
さらに遣隋使を派遣するなど、
この国の礎をつくられたという偉業から
『和国の教主』として崇められ、日本人の心のよりどころとして存在し続けています。

本足跡















しながなる  みてらにいまも うまやどの

みこのみたまは  しずまりてます


本 筆