『太子信仰』。。

御廟所『三骨一廟』
へ‼️。。。クロネコちゃん↑キラキラキラキラキラキラ














































推古天皇皇太子聖徳太子
『礒長墓』



















『聖徳太子』の正式名は“厩戸皇子”。

敏達天皇3年(574)に誕生した太子は、
推古天皇が皇位につくと皇太子・摂政として
これまでにはなかった施策を次々に実行し、
古代国家の礎を築き上げました。

薨去されたのは、
推古天皇30年(622)2月22日のこと。
御遺体は生前に定められていたこの地に埋葬され、太子の菩提を弔うために
「叡福寺」が建立されたと伝わります。

山門をくぐると、正面奥にこんもりとした森が見えます。
これが聖徳太子の『御廟所』。
現在は宮内庁の管理下に置かれています。
考古学上は『叡福寺北古墳』と呼ばれており、
その直径は50メートル前後、
高さ7メートルから成る巨大な円墳。
南に面して横穴式石室が築かれており、
石室内には太子のほかにも
母の穴穂部間人皇女
(あなほべのはしひとのひめみこ)と
妻・膳部臣菩岐々美郎女
(かしわでのおみほききみのいらつめ)が
埋葬されているといわれます。

後世、『太子信仰』が盛んになると、
3基の棺は
『阿弥陀三尊』の形式と結びつけられ、
御廟所は『三骨一廟』という呼び名で
     あつく信仰されました。



横穴式石室の入口部分。

ご覧のように、唐破風の屋根を持った
御霊屋がその入口を覆っています。
写真では見づらいかも知れませんが、
一重目の屋根の下には木彫りの阿弥陀三尊が掲げられており、そこからも太子の御廟所が
『阿弥陀信仰』と深く結びついているといえるでしょう。







空海が築いた!?
御廟所の周囲をとりかこむ結界石の群れ‼️

御廟所の周囲をめぐってみましょう。
墳丘をとりかこむようにして、石柱がずらりと並べられている光景に気づくはず。
これは『結界石』と呼ばれるもので、
内側の『結界石』は弘法大師・空海が
一夜にして築いたものという伝承が残されています。
かの空海も、太子を慕って
「叡福寺」に参拝していたのです!

ほかにも、親鸞や日蓮、一遍などが
「叡福寺」に参拝していることがわかっていますが、日本の仏教界を牽引した錚々たる高僧たちからも慕われていたという事実からは、
「法隆寺」や「四天王寺」を建立し、
仏教の興隆に尽力した太子の遺徳が時代を経ても廃れることのなかったことがうかがえますね。

本足跡

























































文献上にみえる太子の妻は四人。

にくきゅう
菟道貝蛸皇女
(うぢのかひたこのひめみこ)
またの名を
菟道磯津貝皇女
(うぢのしつかひのひめみこ)

敏達天皇と
豊御食炊屋姫尊(のちの推古天皇)の
第一皇女。

『日本書紀』には
「東宮聖徳に嫁いだ」と記されているが、
太子の最古の伝記『上宮聖徳法王帝説』
には名が記されていないことから、
子はなく、早く薨去されたのではと思われる。
太子は即位することなく皇太子のまま薨去したので、基本的に天皇の事績を記す本紀スタイルである『紀』には独自の伝はなく、
妃・王の記事もない。
ただ、御子として“山背大兄”の名が出てくるのみ。


以下は『上宮聖徳法王帝説』にもとづく。



にくきゅう
菩岐々美郎女
(ほききみのいらつめ)
通称は
膳大郎女
(かしはでのおほいらつめ)

天皇の食膳を掌る氏族、
膳部加多夫古臣
(かしはでのかたぶこのおみ、
『書紀』では膳臣賀陀夫)の娘。
聖徳太子薨去の前日に薨去し、
『磯長墓』に
太子の生母・穴穂部間人皇后と
ともに合葬されているとされる。
「法隆寺」では太子と共に
膳大郎女・間人皇后への追慕も大きく、
それがのちに
間人皇后・太子・膳大郎女を
それぞれ
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩と
『阿弥陀三尊』に配した信仰へとつながった。

子は、
舂米女王(つきしねのひめみこ)
次に長谷王(はっせのみこ)
次に久波太女王(くはだのひめみこ)
次に波止利女王(はとりのひめみこ)
次に三枝王(さきくさのみこ)
次に伊止志古王(いとしこのみこ)
次に麻呂古王(まろこのみこ)
次に馬屋古女王(うまやこのひめみこ)
の八人。

家柄的に料理上手だったと思われ、
子の多さからみていちばん寵愛された姫君だったようだ。




にくきゅう
刀自古郎女
(とじこのいらつめ)     

蘇我馬子の娘。
太子の御子で最も有力な存在だった
“山背大兄王”を生んだとされる。
『日本書紀』には
山背大兄王の母が誰であったかの記述はないが、推古天皇崩御後の次期天皇に推され、
蘇我馬子の弟・境部臣摩理勢が
田村皇子(舒明天皇)を推す当主の蝦夷に
逆らってまで頑強に推していたことから、
彼女の子で間違いないだろう。

子は、ほかに
財王(たからのみこ)
日置王(ひおきのみこ)
片岡女王(かたをかのひめみこ)
で、合計四人。

“山背大兄王”は蘇我の刀自古郎女の長子ということで皇位継承候補だったが、
彼は異母妹の舂米王を娶り
蘇我の娘を妻にしなかったので、
馬子の娘・法提郎媛(ほてのいらつめ)
を妃としていた田村皇子を蘇我蝦夷が推したために敗れた。
また、舒明天皇が早くに崩御されたため
とりあえず皇后の宝皇女が即位(皇極天皇)された時にも
次期天皇候補と目されたが、
やはり舒明天皇と法提郎媛の皇子である
古人:大兄皇子を推していたであろう
蘇我入鹿によって攻め滅ぼされることとなった。
膳臣の娘に寵愛の面で一歩を譲った?のは、
やはり蘇我の気性でカミナリ落としすぎたからか。




にくきゅう
位奈部橘王
(いなべのたちばなのひめみこ)
通称は
橘大郎女
(たちばなのおほいらつめ)

敏達天皇と
豊御食炊屋姫尊(推古天皇)の皇子、
尾治王(おはりのみこ)の娘。

太子の薨去を悼み、推古天皇に上奏して
『天寿国繍帳』を作らせた。
常日頃より太子を想う気持ちが強かったのだろう。
子は白髪部王(しらかべのみこ)
次に手嶋女王(てしまのひめみこ)
の二人。



子は十四人。
しかし、皇極天皇二年(643)、
蘇我入鹿によって
山背大兄王の子らと共にみな殺されたという。

本足跡






































































































笏。。。






飛騨のイチイ。。。一位。。



























あすか。。

いかるが。。







『上宮王家』。。





『日本書紀』

厩戸皇子
  (うまやとのみこ)

厩戸豊聡耳皇子
  (うまやとのとよとみみのみこ)

豊聡耳法大王
  (とよとみみののりのおほきみ)

法主王
  (のりのぬしのおほきみ)



『古事記』

上宮之厩戸豊聡耳命
(うへつみやの
うまやとのとよとみみのみこと)



『法隆寺金堂、薬師像の光背にある名』

東宮聖王
  (まけのきみひじりのきみ)




『法王帝説』

厩戸豊聡耳聖徳法王
(うまやとのとよとみみの
しゃうとくのりのおほきみ)

上宮厩戸豊聡耳命
(うへのみやのうまやとの
とよとみみのみこと)

厩戸豊聡八耳命
 (うまやとのとよやつみみのみこと)

上宮王
 (うへのみやのみこ)






 諡

聖 徳 太 子 






「 日出づる処の天子、
書を日没する処の天子に致す。

       恙無きや、……」