「柿本神社」
柿本人麻呂朝臣 ‼
正一位 柿本大明神 ‼
万ごこ路を
神もよみして 武士乃
以の里はむすぶ 八つ房の梅
『八房梅』
元禄時代に『赤穂浪士』の間瀬正明が
主君(浅野長矩)の仇討を祈願して植えたという梅。
1つの花に8個の実が成ることから名付けられた。
もと社前にあった親木の後継樹として境内に移植されたもの(『月照寺』境内にもあり)。
「柿本神社」(かきのもとじんじゃ)は、
兵庫県明石市人丸町にある神社。
『人丸山』の頂上に鎮座するが、
山名も当神社に因むものである。
旧社格は県社。旧くは「人丸神社」と称し、
地元では「人丸さん」とも呼ばれる。
「柿本神社」
【所在地】
兵庫県明石市人丸町1-26
【位置】
北緯34度39分00.75秒
東経135度00分05.8秒
【主祭神】
柿本人麻呂朝臣
【社格等】
旧県社
【創建】
伝・仁和3年(887年)
【本殿の様式】
一間社流造銅板葺
【別名】
人丸神社
『例祭』
4月第2日曜日
【主な神事】
『秋季除火大祭』(10月18日)
【祭神】
『柿本大明神』とも称される
柿本人麻呂朝臣を祀る。
祭神は『歌聖』と仰がれることから
『歌道の神』としての信仰を集め、そこから『学問文芸の神』としても崇められる。
また「人麿(ひとまる)」を
「人生まる(ひとうまる)」
と解し安産の神として、
江戸時代からは[要出典]
「火止まる(ひとまる)」
と解し火防の神としての信仰もある。
他にも『明石』と「開かし」を掛詞として
眼病治癒の効験があるとされている。
嘉暦2年(1327年)に著された『人丸縁起』によると【本地仏】は『十一面観音』で、
その像は旧別当寺として隣接する『月照寺』に祀られている。
【歴史】
『社伝』によれば、仁和3年(887年)に
『明石の岡』(赤松山とも。
現・県立明石公園)にあった
『楊柳寺』(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に【柿本人麻呂の神霊】がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために
塚上に人麻呂を祀る祠を建てて
寺の鎮守としたことに創まるという。
ただし創祀の事情に関しては、
人麻呂が水死させられたという説があるので
本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、
あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として
「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
島隠れゆく 舟をしぞ思ふ」
という歌が載せられ、
左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ、神社ではこの歌を『縁起』として重視していることと、
人麻呂が文武天皇から下賜された
『船乗十一面観世音』の仏像が
『大和国』の『柿本寺』という寺にあったのを覚証が迎えて『楊柳寺の奥の院』に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、
和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられそのことが直接の契機となって、
神社が創祀された可能性が考えられる。
因みに当神社と密接な関係を持つ
『月照寺の寺伝』によれば、
覚証は『大和国』の『広安寺』なる寺から
人麻呂の念持仏であった『船乗十一面観世音』を勧請して『楊柳寺の奥の院』に祀ると共に【寺号】を『月照寺』と改めたといい、
また同寺では「ほのぼのと」の歌に
「初生(ほのぼのと)
娑婆世界(あかしがうらの)
朝立霧(あさきりに)
四魔滅(しまかくれゆく)
念仏(ふねをしぞおもふ)」
との字を充て、
各句を発心大円鏡智(生)、
修行平等性智(老)、
菩薩如観察智(死)、
涅槃成行作智(病)、
法界体性智(苦)の
「生老死病苦」という仏教的摂理で解釈している。
文明8年(1476年)4月に慶範という僧侶が
大和添上郡の『柿本寺』(しほんじ。
現・奈良県天理市に寺跡がある)の復興を目論んで行った勧進状に『明石浦』にも
人麻呂の墓所があると記されているので、
少なくとも当時までには広く知られる存在であったことがわかるが、
天正9年(1581年)には豊臣秀吉が
「播州明石の人丸は和歌第一の神仙」であると『大明石村』の新たに開墾した田地30石を寄進し、
江戸時代に入って慶長17年(1612年)にもこれは安堵され、
元和5年(1619年)に小笠原忠真が
『明石の岡』に『明石城』を築城することになると、
同7年に替地として現在地である小山の崖上に『月照寺』と共に移祀され新たに社領40石が寄進された。
なお、遷座後は新鎮座地を『人丸山』と称するようになり(それまでは旧鎮座地を人丸山と称していた)、旧地にも『人丸社』が残されて明石城の鎮守とされ、これは後に廃絶したものの、『人丸塚』は『本丸跡』に現存している。
柿本人麻呂の死去から1,000年に当たるとされた享保8年(1723年)に霊元上皇の執奏により『正一位』の神階と
『柿本大明神』の神号が宣下されるとともに『女房奉書』が下賜され、
命日とされた3月18日に盛大な『一千年祭』が営まれた。
以来同日を『例祭日』と定め『古今伝授』や『天仁遠波(てにをは)伝授』が行われる際には必ず奉告がなされる例となったが、
同年6月に霊元上皇が撫物を下付するとともに白銀3枚を寄せて3箇年の祈祷を命じると、
桜町、桃園、後桜町天皇も当神社を勅願所と定め、また天皇を始め中宮、上皇、東宮といった皇室から時々の白銀奉納と撫物を下しての祈祷が恒例とされた他、宮廷人や歴代明石藩藩主からも『和歌の神』としての崇敬を受けた。
明治7年(1874年)2月に村社に列し、
同12年6月に郷社、
大正15年(1926年)3月には県社に昇った。