✨✨










『吉井川』

きらクロネコちゃん↑きらキラキラ


おぉぉっ !!✨⚔️



これはっ ❗❓


ヤマタノオロチ ‼️✨✨



そう 。。。この先には、当然 ‼
『六芒星ミッション☆ミ‼』の
『阿波國』が あるわけだけれど !!✨✨



この『岡山』編からは、、!!

あの ‼ 『出雲』へも !!
繋がっていくことであろう !!✨✨

きら!!…くろねこ↑きらキラキラ

















『美咲町』















『高瀬舟』
『吉井川の高瀬廻し』











気になる名前がある ‼️ …。。。

『布施』(『布勢』) ‼

やたらと、目につく !!




きらクロネコちゃん↑きらキラキラ






















「布勢神社」

















↑↑ こういう場合 ♪。。

舗装された道 。。ではなく、
石段 。。の 方を通ります ♪✨
きら黒猫↑きらキラキラ



なるべく ♪。。
【本来の道】【昔からの道】
の方を通りたい !! ✨✨






「布勢神社」





『拝殿』





『本殿』




「布勢神社」 
 (ふせじんじゃ)

岡山県赤磐市仁堀西字布施谷1027 


【神紋】
『三つ巴』

式内社 備前國赤坂郡 布勢神社
旧郷社

【御祭神】
大穴牟遅命






『例祭』は 10月第4日曜日。
明治6年(1873年)、郷社に列した。

大正4年(1915年)、
同地域内にあった
「天津神杜」(天御中主尊)、
「熊野神社」(紀州熊野神)、
「八幡宮」
 (仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)
を『相殿』に合祀した。

境内社に
「荒神社」、「素盞嗚神社」がある。
なお、当社は現在、近くの
金勢大明神』の兼務社である 
 

本足跡







 『古伝』によれば、第11代垂仁天皇の御字、
南海の渡船が転覆するという難があり、
天皇は博士に命じて占わせた。

その結果、
「これは吉備の国『布勢大明神』の神威なり、
社殿を七谷七畝の山麓に遷し、
北面に勧請ありたし」と奏上された。

そこで、現在地の山麓に勧請し、
社殿を造営したと伝えられている。
つまり、もとは『鳥ヶ仙』とも呼ばれた
『龍天山』(竜天山)の頂上に鎮座していた。

この当社の旧地、標高483メートルの
『竜天山』山頂には
現在、「布勢巨神社」が鎮座する。
式内社「布勢神社」の参考社である。


『仁堀庄10ヶ村の大社』として崇敬された。
江戸時代前期の寛文9年(1669年)、
備前岡山藩初代藩主池田光政が
本殿を造営して再建された。
この際の棟札が現存する。

本足跡









「素盞嗚神社」「荒神社」










✨✨✨



『布勢大明神』‼ 。。『布勢神』‼ 。。。


【御祭神】は、
大穴牟遅尊とされているが、

他に第8代 孝元天皇の第一子で、
『阿部氏・膳部氏の祖』である
『大彦命』とする説がある。

 大彦命 ‼ 。。
吉備津彦命 ‼。。と同様、
『四道将軍』の ひとり ‼


 また、大己貴命・大彦命・天鈿女命
の3柱とする説もある。
 (『明治三年神社明細帳』)

本足跡



(
ちなみに。。『布施』氏 は、

『安倍氏』の支族 ?
 …『布施氏』古代豪族

朝臣姓の布施氏は 。。
孝元天皇の皇子の『大彦命』の子孫。

君姓の布施氏は 。。
近江国伊香郡布施(滋賀県長浜市)をルーツとし、応神天皇の子の「若野毛二俣王」の子孫。

公姓の布施氏は 。。
仲哀天皇の皇子の「忍椎命」の子孫。 



『阿倍』氏 。。。 『阿閉』氏 。。。









岡山の神社を巡っていると、よく目にする 。。。
平賀元義 の歌 。。本 筆




平賀 元義
(ひらが もとよし、
寛政12年7月3日(1800年8月22日)
 - 慶応元年12月28日(1866年2月13日))
は、幕末期岡山の国学者、歌人、書家。

賀茂真淵に私淑し独学により国学を修め、
中国地方の地理歴史、神社史研究に打ち込んだが、本人は余技とした万葉調の和歌により
名を知られる。
また、その独特の筆跡で能書家としても愛好されている。
元の姓は『平尾』、
幼名は猪之介、後に七蔵とした。
喜左衛門、丹介とも称す。
名は直元、長元、義元とも言う。
また、祖母の姓を借り、
『興津』(沖津)姓を名乗ったこともあった。

【号】は 源猫彦(ねこのひこ)、
吉備雄、備前処士等。
友人に同じく国学者、歌人の萩原広道がいる。





【略歴】

平尾新兵衛長春と代子の嫡子として生まれた。
出生地は母の実家がある備中国下道郡陶村(現・倉敷市玉島陶)だが、
育ったのは岡山城下の富田町である。
長春は岡山藩老中池田憲成の臣であった。
元義は家を継ぐことを良しとせず、
天保3年(1832年)3月に『脱藩』、
山陽山陰を彷徨した。
諸国で奇矯な振舞いをし、女人遍歴をし、そのことを歌に詠んだ。
元義の歌によく「吾妹子」と見えるのがそれである。
正岡子規はこのことから『墨汁一滴』にて、
元義を
『元義の歌には妹または吾妹子の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名を負へりとぞ。』と紹介している。
脱藩中、天保13年(1842年)より
終生病がちになり困窮するようになった。
嘉永元年(1848年)から
備前国磐梨郡稲蒔村石淵鴨部神社
(現在は高星神社に合祀)神主長濱豊三郎次女と懇ろになり、源太、藤次の二子を儲けたが共に不肖であり、
元義の跡を継がず、元義の著作も散逸してしまったという。

齢六十を過ぎ、藩より脱藩の罪を許され、
妻と別れ岡山に戻った。
岡山では門人も縁者もほとんど絶えていたが、そのうち備前国上道郡大多羅村社方組頭中山縫殿之助宅に身を寄せることができた。
この頃元義の学問が評価されるようになり、
黒住教教行司所より顧問に招聘されたり、
藩主池田茂政より禄を与えられ、また御目見えのための登城の命が下るなどしたが、
慶応元年(1865年)12月28日、
寄宿先の中山宅を出て友人宅を訪れる途中、
路傍の溝にはまり、頓死した。享年67。


本足跡
















「布施神社」

【所在地】
岡山市東区大多羅町541 


平賀元義は、岡山藩士の家に生れながら、
脱藩、放浪生活を送り、
新古今調の和歌が全盛だった幕末に、
ひとりおおらかな万葉調の歌を詠んだ
異色の郷土歌人で、
明治になり正岡子規に
『万葉以来の歌人』と絶賛された。
その平賀元義が晩年滞在していた所
ー「布施神社」ー。。
境内には『歌碑』が二基建てられている。


上山は  山風寒し ちちのみの

父のみことの  足ひゆらむか 
 筆



平賀元義
 (寛政12(1800)年~慶応元(1865)年)
下道(しもつみち)郡陶(すえ)村
(現倉敷市玉島陶)


晩年、門人であったこの「布施神社」の
神官中山家に滞在していた時、
学才を認められ岡山藩主池田茂政に出仕することとなったが、直前にして
1865(慶応元)年、長岡の門人宅へ赴く途中、長利の村はずれの路傍で死去した。

現在この地は『元義由縁の地』として、
【岡山市指定史跡】となっている。

歌碑が2基(短歌、長歌)残されている。
(岡山市 平成9年3月設置)


本足跡





源 猫彦 。。

平賀元義 ‼ 。。。

平賀左衛門大郎源元義
  (ひらがさえもんたろうみなもともとよし)



その人生の大半を
「御国の神社と存亡を共にする存念」
との決意のもとに理想と夢を追い、
国学者、すなわち
『皇学 (みくにまなび)の徒』として
門人達と共に『備前』、『備中』、『美作』を中心とした各地の神社古資料等の探訪の日々を続けた。


「天下の歌人 挙って古今和歌を学ぶ、
元義 笑って顧ざるなり。
…万葉以降に於いて歌人を得たり。
源実朝、徳川宗武、井出曙覧、
平賀元義 是なり。…」










『陶村 』。。。

スヱ  。。。


『陶邑』。。。




『須恵器』


『備前焼』。。。✨













大汝〔おほなむち〕  

神〔かみ〕命〔みこと〕の 臥〔ふせ〕らせし

布勢の石倉〔いわくら〕  見れば尊し 

 筆





『布勢大明神』‼ 。。
『布勢神』‼ 。。。

とは ❗❓