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『薩摩守』・平忠度(たいらのただのり)
 1144年~1184年 享年41才

平家一門の武将で、平忠盛の六男、
清盛の異母弟にあたります。

父の忠盛と同じく、文武ともに優れた人物。




【武人としての忠度】
源頼朝討伐の『富士川の戦い(1180)』、
源義仲討伐の『倶利伽羅峠の戦い(1183)』
に参戦し、
『一ノ谷の戦い』では
【西門の大将軍】として戦ったのですが、
源氏軍の岡部忠澄〈忠純とも〉(ただずみ)
(別名・六弥太)に討たれ41才で亡くなっています。
その時の官位が『正四位下薩摩の守』。


『一ノ谷の戦い』の様子は、『平家物語』ではこのように語られています。
[忠度最期](覚一本)

『義経による一の谷の背後からの攻め
(鵯越・ひよどりこえ)によって、後退を余儀なくされた忠度は岡部忠澄に追いつかれ、
馬上で組合う。
そのまま落ちた二人、忠度は
岡部忠澄の兜を刀で三度刺し抜くも傷が浅く、
それを見ていた家来が忠度の背後から襲いかかり忠度の右手を切り落とす。
忠度はこの家来を左手で投げ飛ばし、
今が最後と観念して念仏を唱えたあと
岡部忠澄によって首を打ち落とされる。』

壮絶な最期の模様が描かれています。



岡部 六弥太 忠澄 ‼ 。。。


 岡部忠澄(?~1197年)は
『武蔵七党系図』によれば、
『武蔵七党』の一つ
『猪俣党』の猪俣忠兼の子、
忠綱が武蔵国榛沢(はんざわ)郡岡部
(現、埼玉県深谷市岡部)の地を領して
岡部六大夫と称したのに始まるとしています。
忠綱のあとその嫡流は、六郎行忠が継ぎ
その嫡子が六弥太忠澄です。

忠澄は源義朝の家人として仕え、
『保元物語』に
「武蔵国には長井斎藤別当実盛、
岡部六弥太(猪俣党)、
猪俣小平六範綱(猪俣党)、
平山季重(西党)、
金子十郎(村山党)云々」とあるように、
『保元の乱』で義朝に従う
【武蔵武士20騎】の1人としてその名が見えます。

その三年後の『平治の乱』にも参加し
「長井斎藤別当実盛、岡部六弥太、
猪俣小平六、熊谷次郎直実、平山季重 等々」
とあり、
義朝に従軍して勇戦し
『武蔵武士』の名声を高めました。
ことに『一ノ谷合戦』では、
平家【西ノ手の将軍】薩摩守忠度を討取り、
『奥州征伐』にも出陣して軍功をたて、
子孫は『豊後』、『長門』の豪族となっています。

















【文人としての忠度】
忠度は歌人としても優れ、『勅撰和歌集』に
11首入集されており、平家一門では
父の忠盛17首、兄の経盛12首に継ぐものだそうです。

和歌は藤原俊成(としなり、または、
しゅんぜいとも)に師事していました。
俊成は息子の定家をはじめ、
優秀な歌人を多数輩出したことで有名です。




【忠度都落】での和歌
和歌の師の俊成と忠度との間に起きたエピソードが、『平家物語』(忠度都落)
〈覚一本〉に描かれています。

『木曾義仲によって都を制服された平家一門は西国へと逃れてゆきます。
忠度もその一人。
そして忠度は生きて都に帰ることがないと悟ったのか、秘かに引き返し俊成邸を訪れます。
忠度は百首あまりの歌を書いた巻物を俊成に預け、一首でもよいから勅撰和歌集に載せてほしいと告げてその場を去って行くのでした。』

そののち俊成は後白河院の院宣によって
勅撰集『千載和歌集』を撰進します。
時は1188年。忠度(1144~1184)の死後です。

この『千載和歌集』の中に、俊成は
忠度の願いを叶え一首の和歌を採用しました。

「故郷花といへる心をよみ侍りける
  よみ人しらず

さざなみや 滋賀の都は あれにしを
    昔ながらの 山桜かな」   

(さざなみの寄せる滋賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔のままさいていることだろう)

忠度の念願は叶ったように思われますが、
この和歌は<よみ人知らず>として入首されていたのです。

この勅撰集『千載和歌集』が編纂されたとき、
平家はまだ朝敵の立場だったので、
俊成は平忠度の名前を書かず
<よみ人知らず>としたのでした。

このことについて忠度の想いは
『能』のテキストでは次のように書かれています。

『千載集の歌の品には入りたれども。
勅勘の身の悲しさは。読人知らずと書かれしこと。妄執の中の第一なり』


※『勅勘』=天皇からの勘当
(死後なお成仏できずに苦しんでいるのは、
自分の和歌が名前入りで載っていないということが一番の原因なのだ)

能『忠度』はこの妄執が骨格となって構成されています。

忠度という公達は、
『一ノ谷』で壮絶な死を遂げたことよりも、
『勅撰集』に自分の名前が載っていないことの方がよほど悲しいことのようです。




【忠度最期】での和歌
『平家物語』「忠度最期」〈覚一本〉
に取り入れられている和歌が、
能『忠度』の本説(話の根本材料)となっています。

「旅宿の花

行き暮れて 木の下かげを 宿とせば
 花や今宵の あるじならまし」 

(日が暮れて桜の木陰を宿とするならば、
桜の花が今晩の宿主になってくれるだろう)


この和歌は、忠度が『一ノ谷の戦い』で
岡部忠澄(おかべのただずみ)に討たれた時、
『箙』(えびら・背中に負って矢を入れる筒状の入れ物)に文が付けれられてあり、
その文に書かれたものです。

岡部忠澄が『忠度の箙』からこの和歌を見つけたのです。

命が尽きる最後の最後まで、
和歌の世界から離れなかった忠度。

こんな忠度を世阿弥は『能』の中で描きたかったのだと思います。









平 忠度 ‼ 。。。







『明石』‼






『忠度塚』

















『忠度塚』

 寿永3(1184)年、『一ノ谷の戦い』で敗れた清盛の末弟、平忠度が、
源氏の武将・岡部六弥太忠澄と川をはさんで戦ったことから『両馬川』と呼ばれるようになりました。
この戦いで、忠度は右腕を切り落とされ、もはやこれまでと、念仏を唱え討たれました。
『両馬川旧跡』の近くには、
忠度の右腕を埋めた「腕塚神社」や、
忠度の亡骸を埋葬した『忠度塚』が残っています。

【住所】
明石市天文町2-2

本足跡






















『JR人丸前駅』の少し西に玉垣に囲まれて建つ「腕塚神社」があります。
かつては、平忠度の腕を祀る小さな祠が
山陽電車の踏切の傍にあり、
周辺は『平家物語』に語られている
「忠度最期」に因んで
『右手塚(うでつか)町』と呼ばれていました。
昭和五十九年三月、山陽電車の高架化に伴って祠は、現在地に移され、町名は『天文町』に変わりました。



「腕塚神社」







『右手』。。。

正四位下薩摩守平忠度朝臣














『腕塚神社縁起』

「寿永三年(1184)二月七日、
『源平一ノ谷の戦い』に敗れた薩摩守忠度は、
海岸沿いに西へ落ちていった。
源氏の将の岡部六弥太忠澄は、
はるかにこれを見て十余騎でこれを追った。
忠度につき従っていた源次ら四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって
明石の『両馬川』(りょうまがわ)まできた時、忠澄に追いつかれた。
二人は馬を並べて戦い組討ちとなる。
忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。
忠澄の郎党は主人の一大事とかけつけ、
忠度の右腕を切り落とす。
「もはやこれまで」と、
忠度は念仏を唱え討たれる。
『箙』に結びつけられた文を広げると
「行きくれて 木の下陰を 宿とせば
  花や今宵の主ならまし 忠度」とあり

初めて忠度と分かった。
敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、
と涙したという。
清盛の末弟の忠度は、
藤原俊成に師事した歌人であった。
年齢は四十一歳。
忠度が馬を並べて戦った川をその後、
『両馬川』と呼ぶようになり、つい最近まで
『山電人丸前駅』の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠(あんきょ)になってしまい、昔を偲ぶよすがもない。
腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、いま神社にある木製の右手で患部を撫でれば、よくなるといわれている。
これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。
山電の線路脇に【忠度の腕】を埋めたという
小さい祠があった。
昭和五十九年三月、山電の高架化工事のため
東三十メートルの位置に移されたものが
現在の「腕塚神社」である。
町名もこれに因んで
『右手塚(うでづか)町』と称していたが、『天文町』に変更された。
時代の流れとはいえ歴史や伝説が消えていくのは惜しい。

 地元の『天文町右手塚自治会』が、年間を通じて献花・清掃などに奉仕しているが、
毎年三月の第一日曜日に氏神の神官と共に
祭礼を行い、謡曲『忠度』を連吟で
奉納して忠度を偲ぶ習わしである。
謡曲の奉納は神社が現在地に移ってからであるが、みたまを祭るご奉仕がいつの頃から始まったものか地元の古老も知らないから、
その起源は随分昔に違いない。
地元民としては子子孫孫に至るまで神社奉仕が伝承されることを切に願うものである。

本足跡


















『神戸』‼



平忠度 『胴塚』






















『平忠度 胴塚』(『首塚』)

【所在】
神戸市長田区野田町8丁目27番


『概要』
平清盛の末弟の薩摩守忠度は、
豪勇で知られ、歌道でも有名で歌集もある
文武に秀でた武将です。

『一ノ谷合戦』の際、西門『一ノ谷』を守り、
土肥実平(どひさねひら)軍をよく防ぎましたが、敗れて逃げる途中、
岡部六弥太忠澄(ただずみ)と戦い、
首を討ち取ろうとしたところを、
忠澄の家臣に後ろから右腕を切り落とされ、
ついに静かに念仏して忠澄に討たれました。

以前はこの地に塚があったようですが、
大正6年に野田協議会により石碑が建てられ敷地が整備されました。

ここから東に約300m離れた駒ケ林4丁目には、
平成10年度に地域文化財に認定された、
『平忠度塚』(腕塚)があります。

地元の野田町8丁目自治会では、定期的な清掃活動や、毎年8月の地蔵盆には隣接する地蔵とあわせて供養しており、
地域で親しまれ大切に守られています。

本足跡















『一門の花』‼と讃えられた ‼…
『平家』の中でも秀でた歌人








『熊野育ちの剛力』‼








 「熊野育ちの剛力」と称された平忠度は、
武芸と歌道に優れた武将であった。
平清盛の異母弟で、大将軍、副将軍として
各地で武勇を残している。
『勅選和歌集』に平忠度が
【詠み人知らず】として入れられている。
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを
 昔ながらの 山桜かな」 

生誕地の新宮市熊野町宮井、168号線沿いに「平忠度 生誕の地」があり、石碑が建立されている。
彼の名前「ただのり」に
「タダ乗り(無賃乗車)」とかけた隠語がある。







『忠度生誕の地』


熊野育ちの文武両道の平家の武将、平忠度 ‼


平忠度(たいらのただのり:?~1184)は、
平忠盛の六男。清盛の異母弟。
『薩摩守』(さつまのかみ)。
武芸にも歌道にも優れた武将でした。

妻は第18代熊野別当湛快(たんかい)の娘で、
第21代熊野別当湛増(たんぞう)の妹。
熊野生まれの熊野の育ちで、熊野川沿いの
『音川』(おとがわ)が生誕の地と伝えられます。

本足跡




熊野別当湛増 ‼ 。。。といえば❗❓

弁慶 ‼ 。。。 








『平家物語』巻第九【忠度最期】現代語訳

 薩摩守忠度は、
『一の谷』の【西手の大将軍】でいらっしゃったが、紺地の錦の直垂(ひたたれ)に
黒糸おどしの鎧を着て、黒馬の太くたくましいのに、ゐかけ地(漆塗りの上に金粉をふりかけたもの)の鞍を置いて、お乗りになっていた。

 その軍勢百騎ばかりのなかに取り囲まれて、あまり慌てず、ときどき馬をとめて戦いながら落ちていかれるのを、
『猪俣党』(いのまたとう)の
岡辺六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)が目をつけ、馬に鞭打ちあぶみをあおり、
追いつき申し上げ、
「そもそもいかなる人でいらっしゃいるのですか、お名乗りください」と申し上げたので、
「この隊は味方だぞ」と言って振り仰ぎなさったが、兜の中を覗きこむと、
お歯黒で歯を黒く染めている。

味方には【お歯黒】をしている人はいない。
【平家の公達】でいらっしゃるにちがいないと思い、馬を押し並べてむんずと組んだ。
これを見て、百騎ほどある兵たちは、
諸国から徴収して兵としたものなので、
一騎も残らず我先にと逃げ去った。

 薩摩守は「憎い奴だな。味方だと言ったのだから、味方だと思えばよかったのだ」
と言って、熊野育ちの大力の早業でいらっしゃったので、すぐさま刀を抜き、
六野太を馬の上で二刀、馬から落ちたところで一刀、三刀まで突かれた。
二刀は鎧の上で通らず、一刀は内兜へ突き入れられたけれども、薄手なので死ななかったのを取り押さえて、首を掻こうとなさっているところに、
六野太の郎党がかけつけて、刀を抜き、
『薩摩守』の右の腕を、
肘のもとからふつと斬り落とす。

 今が最期と思われたのだろうか、
「少しの間、退いておれ。
十念(南無阿弥陀仏と十遍唱えること)
を唱える」と言って、

六野太をつかんで弓の長さ(七尺五寸。
約 2.2m)ほど投げ捨てられた。
その後、西に向かい、声高に十念を唱え、
「光明遍照十方世界、念仏衆生攝取不捨
(観無量寿経にある句。
仏の光明はあまねく十方世界を照らし、
念仏を唱える衆生を救い取って
お捨てにならないという意味)」
と言い終わられるやいなや、
六野太が後ろから寄って『薩摩守』の首を討った。

 身分のよい【大将軍】を討ったと思ったけれども、名を誰とも知らなかったので、
『箙』(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で
一首の歌を詠まれている。

行(ゆき)くれて
 木(こ)の下かげを やどとせば

花やこよいひの  あるじならまし 

(訳)旅の道中、日が暮れて、
桜の木の下を今夜の宿とするならば、
桜の花が主人としてもてなしてくれるだろう。

 「忠度」と書かれていたので
初めて『薩摩守』とわかったのである。

六野太は、薩摩守の首を太刀の先に貫き、
高く差し上げ、大声を上げて、
「日頃名高い平家の御方である薩摩守殿を、
岡部六野太忠純が討ちたてまつったぞ」
と名乗ったので、
敵も味方もこれを聞いて、
「ああ、お気の毒だ。
武芸にも歌道にも達者でいらっしゃった人を。惜しむべき大将軍を」と言って、
涙を流し袖を濡らさぬ人はなかった。


本筆




『勅撰和歌集』に採られた忠度の歌

 『源平合戦』のさなかに撰集が進められていた勅撰和歌集『千載集』には、
忠度の歌が 1首採られています。

さざ浪や 志賀の都は あれにしを
 昔ながらの 山ざくらかな

(訳)さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔と同じように咲いていることだ。 

「さざなみ」は「志賀」の枕詞。
「ながら」は地名の「長等」に
「昔ながら」を懸けたもの。

 『都落ち』の最中、忠度は俊成の屋敷へ赴き自作の歌 100首ほどを書きつけた巻物を
俊成に託して、1首なりとも『勅撰集』に採用してほしいと願って立ち去り、
その後、『一ノ谷合戦』にて
壮絶な戦死を遂げました。

俊成は忠度の願いを叶え、託された歌のなかから1首を『千載集』に採用しましたが、
『朝敵』となった忠度の名を憚り、
【詠み人知らず】として掲載しました。

本足跡













『旅宿の花』

行きくれて

木の下かげを 宿とせば


 花やこよひの

あるじならまし

筆