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『一ノ谷』



















『敦盛卿首洗池』

















『一ノ谷の戦い』で熊谷直実に討たれた
平敦盛の首を洗い清めた池と伝えられる。 

本足跡






















『義経腰掛の松』


 源義経は、『一ノ谷の戦い』で熊谷直実が討ち取った平敦盛の首をこの松樹に腰を掛けて首を実検したのだとか。

『首実検の松』とも呼ばれる。 

本足跡












































!!…くろねこきらキラキラ








『平敦盛卿首塚』









 敦盛 。。。



『敦盛首塚』





 『一ノ谷の戦い』で
熊谷直実に討たれた平敦盛の首塚。


 敦盛は、平清盛の弟・経盛の末子。

 1184年(寿永3年)2月7日、
源義経の奇襲で『一ノ谷』の平家軍が劣勢になると、敦盛は騎馬で海上の船に逃れようとするが、熊谷直実に呼び止められてしまう。

 取って返した敦盛を直実は馬から組み落として首を斬ろうとするが、
我が子・直家と同じ年頃の若武者を見て
躊躇したのだと伝えられている。

 このとき敦盛は16歳(17歳とも)。

 涙ながらに敦盛の首をとった直実は、
のちに世の無常を感じ出家している。

 ここには【首】が葬られ、
『須磨浦公園』の『敦盛塚』には
【胴体】が葬られたのだとか。

本足跡




謡曲『敦盛』と 敦盛首塚



『敦盛首塚』

『謡曲「敦盛」は、
戦乱の巷で敵であった者同士が、
極楽浄土で共に成仏する運命になった事を
主軸にして作曲された修羅物である。
一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、
無常を感じ出家して蓮生と改め、
菩提のため古戦場を訪ねると、敦盛の霊は
草刈男の姿をして現れて迎える。
蓮生はひたすら回向を読けまどろむ夢の中に、花やかな姿で現れる敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日があった事や戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るのである。
直実は、義経の首実検の後、許しを得て
遺品「馬、甲冑、弓矢、青葉の笛」と共に、
戦死の有様を書き添えて父経盛に送った。
懇ろに弔らわれた「敦盛首塚」は
    今も人は絶えない。』


本足跡


















 敦盛が所有していた
『青葉の笛』、『高麗笛』
は『須磨寺』に保管されている。
これらの笛は、江戸時代には拝観料を払えば見ることができるようになっており、
笛に係る松尾芭蕉の句も残されている。
 


唱歌『青葉の笛』
(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)
の一番は、
敦盛の最期を歌って広く知られる。

(二番は平忠度)

本足跡






一の谷の 軍(いくさ)破れ

討たれし平家の
 公達あわ

暁寒き
 須磨の嵐に


聞こえしはこれか
青葉の笛


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敦盛 ‼ 。。。

『平敦盛像』(狩野安信筆、須磨寺蔵)



平 敦盛(たいら の あつもり)は、
平安時代末期の武将。
平清盛の弟・経盛の末子。
位階は従五位下。
官職にはついておらず、
『無官大夫』と称された。






【時代】
平安時代末期

【生誕】
嘉応元年(1169年)
【死没】
元暦元年2月7日(1184年3月20日)


【別名】
無官大夫

【墓所】
『高野山奥の院』、
『須磨寺』(首塚)
『須磨浦公園』(胴塚)


【官位】
従五位下

【主君】
安徳天皇

【氏族】
桓武平氏維衡流(伊勢平氏)



【父母】

父:平経盛

【兄弟】
経正、経俊、敦盛






 
直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、
『高野山』で
『敦盛の七回忌法要』を行っている。

また『一谷嫩軍記』では、
実は敦盛は後白河院のご落胤で、
直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっている。 




『生涯』

笛の名手であり、祖父・平忠盛が
鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
承安4年(1174年)から治承2年(1178年)まで『若狭守』に任じられており、過去に官職についていた経歴はある。

平家一門として17歳で
『一ノ谷の戦い』に参加。
源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、
敵将を探していた熊谷直実が
「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。
敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、
我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。
直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、
敦盛は「お前のためには良い敵だ、
名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。
すみやかに首を取れ」と答え、
直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。
「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を
『屋島』にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。

この『平家物語』の名場面は、
のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、
文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。



織田信長の好んだ歌
「人間五十年、
下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」

は幸若舞『敦盛』の一節である。


本足跡














幸若舞『敦盛』

「思へばこの世は常の住み家にあらず

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、
榮花は先立つて無常の風に誘はるる

南楼の月を弄ぶ輩も
 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間五十年、
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、
      口惜しかりき次第ぞ」


筆