✡✨✨
『倉敷刀剣美術館』には
『明石国行』『日本号』『鶯丸』
『次郎太刀』『同田貫正国』『御手杵』
『蜻蛉切』『蜂須賀虎徹』『和泉守』
『大和守』『加州清光』『小夜左門次』等
と同派・同作者の刀が展示されていて、
撮影もできる。
『歴史』。。。📓 📚
『戦国時代』が、好きで!!。。。✨
『関ヶ原の戦い』が終わり …
『江戸時代』が、はじまっていくと 。。
興味を失っていき …。。。。(笑)
その『江戸時代』が終わりを迎える頃の‼…
『幕末』になると !!
再び !!…テンションが上がる !!✨
『幕末』!!⚔️
『新選組』!!
俺は、『新選組』が好きである!!
特に好きなのが ‼…
土方歳三 ‼ 。。。
沖田総司 ‼ 。。。
斎藤一 ‼ 。。。
⚔️
『新選組』参謀
伊東甲子太郎 ‼ 。。
『新選組』八番隊隊長
藤堂平助 ‼ 。。
⚔️
愛刀『長曽祢虎徹』‼
彼が愛した刀は『長曽祢虎徹』で、
江戸新刀の代表工である長曽弥興里が作った刀と言われています。
彼は1655年頃、50歳ほどのとき江戸へ出て
刀鍛冶になったそうで、その後に作られたとみられます。
近藤は『池田屋事件』のときにも
『虎徹』を持って乗り込んだと言われています。
『江戸新刀』の名工、野田繁慶、越前康継
とあわせて『江府三作』と呼ばれる !!
近藤勇が残した名言として、
「俺は武士よりも武士らしい武士になる」
という言葉があります。
そんな彼の『もののふ魂』を象徴するものといえば、名刀『長曽祢虎徹』でしょう。
竹刀剣術ではそれほど凄腕という訳ではなかった近藤勇ですが、真剣による実戦では
めっぽう強かったとされています。
刀剣好きの近藤勇が愛した、『長曽祢虎徹』とはどのような刀なのでしょうか?
(1)【長曽祢虎徹の概要について】
『長曽祢虎徹』は、
江戸で『長曽祢鍛冶集団』に加わった
名刀工・長曽祢興里による作品です。
すっかり戦とは無縁になってしまった江戸時代ですが、長曽祢興里は切れ味抜群の刀作りを20年に渡って行いました。
見る者に緊張感を与えるほどの存在感を放つ『長曽祢虎徹』は、
江戸時代の『新刀期』の刀でありながらも、『古刀』のように鉄が柔らかいという特徴があります。
また、江戸時代の流行りを反映して反りが浅く、刀身本体を構成している地鉄(じがね)は、鍛えが強く冴えわたっています。
地鉄の模様のことを『鍛え肌』と言いますが、
『長曽祢虎徹』は、木の年輪のような筋が丸みを帯びているように見える杢目肌(もくめはだ)が特徴的です。
鉄が明るく冴えた刀が多いため、鑑賞用としても素晴らしい刀ですが、実用向きの刀作だと言えます。
短刀は少なく、主に大刀や脇差が作られました。
江戸時代には、『山田一門』が担った
“日本刀の試し斬り”を行う専門役職があり、
刀の【切れ味】の序列を決めていました。
【切れ味】ごとに4段階に分けられていましたが、当然のことながら『長曽祢虎徹』は
【最上大業物】という、もっとも素晴らしい切れ味の刀剣として認められていました。
近藤勇の愛した刀である『長曽祢虎徹』は、
現在のところ行方不明です。
(2)【刀にまつわるエピソード】
『新選組』を一躍有名にした出来事といえば、京都で起こった『池田屋事件』でしょう。
『池田屋事件』とは、
幕府側の治安部隊である『新選組』が、
京都にある旅館・『池田屋』に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを襲撃した事件です。
当初、江戸幕府の転覆を謀る20数名の志士たちが集まる『池田屋』に、
『新選組』側はたった4人で攻め込みました。
激しい戦いの最中、
結核により吐血した沖田総司と
傷を負った藤堂平助は戦線離脱し、
援軍が駆け付けるまでの間、
永倉新八と近藤勇が尊王攘夷派の志士たちを相手に死闘を繰り広げます。
その戦いで、永倉新八は左手の親指を負傷します。
しかしながら、新選組局長の近藤勇は無傷だったといいますから、やはり実戦で実力を発揮できる人物だったのでしょう。
永倉新八の刀は激闘に末に折れてしまいますが、近藤勇の『長曽祢虎徹』は、
持ち主同様に無傷でした。
『池田屋事件』の後、
郷里の養父に宛てた手紙の中で、
「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」
と書き送り、他の隊員の刀はボロボロになったが、自分の刀は『長曽祢虎徹』だったので命が助かったということを述べています。
実は、近藤勇の愛刀は「無銘」だったため、
『長曽祢虎徹』ではなかったという説もあります。
偽物か本物か諸説ある近藤勇の愛刀ですが、はたして無類の刀剣好きだった彼が見誤ることがあるのだろうか、と考えずにはいられません。
いずれにしても、近藤勇の愛刀は素晴らしい刀であったことには間違いないでしょう。
虎徹 ‼。。小鉄 ‼。。乕徹 ‼。。。
『長曽祢興里乕徹』‼
【最上大業物】!!⚔️✨
『刀剣の業物一覧』
文化12年(1815年)、山田浅右衛門5代吉睦は
多くの刀の試し斬りを行い、
刀工ごとに【切れ味】を分類した結果を
『懐宝剣尺』という本にまとめて公表した。
刀剣の業物一覧
(とうけんのわざものいちらん)
は同書に記される、
最上大業物14工、
大業物20工、
良業物50工、業物80工、
大業物・良業物・業物混合65工の
計229工をいう。
尚、分類の読みはそれぞれ、
『最上大業物』(さいじょうおおわざもの)、
『大業物』(おおわざもの)、
『良業物』(よきわざもの)、
『業物』(わざもの)。
ただし、後に出版された『古今鍛冶備考』では
『懐宝剣尺』のランクを追加訂正しており、
載せている刀工は5倍にも及ぶ。
簡単に言うと!!⚔️✨
『刀剣の斬れ味ランキング』!!
『最上大業物』 … ⚔️⚔️⚔️⚔️
『大業物』 … ⚔️⚔️⚔️
『良業物』 … ⚔️⚔️
『業物』 … ⚔️
⚔️
⚔️
『新選組』三番隊隊長
斎藤一
【愛刀】『摂州住池田鬼神丸国重』
『鬼神丸国重』‼
鬼神丸国重について
(1)【鬼神丸国重の概要】
京都・壬生の刀研師、源龍斎俊永が遺した
『会津守護職様御預新撰組一等様刀改控』
の記録の中には、「元治元年六月七日」
の日付とともに、32名の隊士たちの
刀の銘や状態が記されています。
その二日前に起きた有名な出来事こそ
『池田屋事件』。
隊士たちは損傷した刀のメンテナンスのため
俊永に刀を預けており、これはそのときの記録ではないかと推測されています。
斎藤一の刀については以下のように記されています。
「摂州住池田鬼神丸国重
二尺三寸一分 刃毀レ小サク無数」
『摂州住』とは
現在の大阪府池田市にあたる地域。
江戸時代の刀匠・
池田鬼神丸不動国重による業物で、
メモによるとこの刀は
1682(天和二)年に作刀されたもの。
斎藤がどのような経緯でこの刀を手に入れたのかは不明ですが、
『池田屋事件』の際に活躍し、
『新選組』の名挙げに一役買っていたのかもしれません。
(2)【鬼神丸国重まつわるエピソード】
ところで、俊永のメモは多くの歴史小説に影響を与えた『新撰組始末記』や『新撰組異聞』などでお馴染みの作家・
子母澤寛(しもざわ かん)が、
『新撰組』に関連する資料を収集していたときに発見したと言われています。
そのためメモそのものの信憑性を問う声も多く、斎藤の愛刀は『鬼神丸国重』ではなかったとする説もあります。
実際、近藤勇が『池田屋事件』の前年に
郷里の佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に興味深い記述があります。
「剣は大坂者は決して御用いなさるまじく候」
つまり、大坂の刀工による刀は用いるな、
ということです。
これはある事件の際に
新選組のブレーン・山南敬助の刀である
『赤心沖光』が折れてしまったこと、
それが大坂の刀工によって作られた刀であったことが原因の一つと考えられています。
大坂で作られる刀は実用性よりも装飾性を大事にする傾向にあり、刃の焼きが強く折れやすいとされてきました。
実戦が想定される『池田屋事件』で使用されるとは考えにくく、これが、
斎藤の刀は『鬼神丸国重』ではなかったという説の根拠の一つとして語られています。
(3)【鬼神丸国重の展示場所】
『鬼神丸国重』は現存していないため、
斎藤の愛刀かどうかということを含め確かめる術は残念ながらありません。
しかし同じ刀匠による刀は、
岡山県にある『倉敷刀剣美術館』と、
函館市にある『土方歳三函館記念館』
で見ることができます。
斎藤一 ‼。。。
左利きの剣術 !!✨⚔️✨
宮本武蔵 ‼ 。。。
「斬った数だけ、涙を流した。」
『二刀流』!!⚔️
『二天一流兵法の開祖』‼ 。。。⚔️
天下無双の剣士、宮本武蔵 ‼
安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの戦いの中を生き抜いた剣豪『宮本武蔵』。
昭和初期、吉川英治作の小説『宮本武蔵』
が彼の名前を有名にし、その後映画や
ドラマ、漫画などにリメイクされました。
剣術道場を開設していた
京都の吉岡一門をたった一人で破り、
剣客佐々木小次郎との決闘に櫂を削って作った木刀で勝利するなど、『巌流島の戦い』‼
剣で敵う者がいなかったと伝わるその生涯は、
物語の中でさまざまに描かれているものの、細かな事実はいまだ謎が多いそうです。
宮本武蔵はどのような人だったのでしょうか。
小説『宮本武蔵』で生まれ故郷と紹介されているのは、『宮本村』。。